バリアフリーへの対応
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/13 17:09 UTC 版)
「鉄道車両の台車史」の記事における「バリアフリーへの対応」の解説
Brill 76E・77Eのレベルで、つまり20世紀初頭の技術水準のままで長らく留まっていた日本の路面電車の低床化への取り組みであるが、それを改善しようという動きが最初に具体化したのは、1955年のことであった。 この年、東急車輛製造が親会社である東京急行電鉄の玉川線用として設計した、画期的な超軽量構造の新型車であるデハ200形で、最小時510mm径の超小型車輪を使用するTS-302・501が採用され、これにより従来の一般的な低床車よりも50mmから60mm程度低い、床面高590mmを実現したのである。 この車両自体は技術的な未成熟や運用面の不都合などから、決して成功作とはいえない存在であるが、当時日本へ紹介が始まったばかりの最新技術をどん欲に取り込んだその設計は、将来の超低床電車に多大なサジェスチョンを与えうる非常に斬新なものであった。 だが、このデハ200形が製造された1950年代後半以降、日本の路面電車は急速にモータリゼーションの渦の中に飲み込まれ、画期的な低床車の開発を行うばかりか、通常構造の新造車を投入することさえ困難な状況へと追い込まれていった。このため、以後の日本の路面電車でのバリアフリー施策は、東京都交通局荒川線で1977年に実施されたホーム高さ引き上げによる対応が目立つ程度で、1997年の外国技術の導入による熊本市交通局9700形電車の竣工まで、超低床化に対する取り組みはほとんどなされないまま、実に40年以上もの長期にわたってそのまま推移する結果となった。 1997年に熊本市が導入したのはドイツのアドトランツ(ダイムラー・クライスラーレールシステムズ、現: ボンバルディア・トランスポーテーション)社がその前身であるMAN社およびキーペ社時代(1993年)に開発した、俗にブレーメン形と呼ばれる100%低床車で、これは左右の車輪間をつなぐ車軸を廃して独立回転車輪とし、主電動機を車体装架として左右の座席下に押し込んでそこからユニバーサルジョイントを組み込んだプロペラシャフトで車輪直結の駆動装置に動力を伝達することで通路部分の100%低床化を実現するものである。 ヨーロッパでの低床化への取り組みは、近代的な意味でのバリアフリー施策との連携という観点では、1984年にジュネーヴ市電が導入した60%低床車が皮切りであるとされる。 だが、これに必要となる基礎研究はドイツが先行しており、ドイツ公共輸送事業者協会 (VDV) がその前身であるVerband offentlicher Verkehrsbetriebe (VOV)時代の1982年に連邦政府の助成金により研究をスタートし、1991年に試作車が完成した「シュタットバーン2000」シリーズは、イタリアやフランスといった各国の車両メーカーにも重要な影響を及ぼし、以後現在に至るまで各国で設計製造されている超低床車技術の基礎となっている。 輸入技術で100%低床車を導入した日本であったが、遅ればせながら2000年5月に当時の運輸省が呼びかけを行い、これに呼応したメーカー8社が共同で「超低床エルアールブイ台車技術研究組合」を2001年に設立、日本の路面電車に多い、1067mm軌間線区での使用に適した超低床台車の開発を進め、2004年3月の同組合解散までに3種の試作台車を完成した。 この内、もっとも通常台車に近い構造を備えていたタイプBを基本として、同組合に参加していた近畿車輛(車体)・三菱重工業(台車)・東洋電機製造(電装品)の3社がユーザーである広島電鉄を交えてU3プロジェクトとして実用車の開発に着手し、これは2004年冬に広島電鉄5100形として初号車を完成、翌年3月より就役を開始した。 5100形に採用された台車は前述の通り「超低床エルアールブイ台車技術研究組合」の開発したタイプBを量産化したもので、言わばかつてのモノモーター式2軸駆動台車を左右の車輪それぞれで分離独立させたような駆動システムを特徴とし、付随台車を専用設計とすることで付随車の通路幅は1,120mmを確保することに成功している。 広島電鉄5100形先頭車台車 広島電鉄5100形中間車台車
※この「バリアフリーへの対応」の解説は、「鉄道車両の台車史」の解説の一部です。
「バリアフリーへの対応」を含む「鉄道車両の台車史」の記事については、「鉄道車両の台車史」の概要を参照ください。
- バリアフリーへの対応のページへのリンク