熊野別当家の「系譜」
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熊野別当は長快をはじめとして妻帯して一家を構えていた。そのことからして、長快が法橋に叙階されたことは、長快の家系の格式が公的に認められたことと受け止められた。白河院から田畠の寄進を受けたことや、その後、元永2年(1119年)には50烟の封戸を寄進されたこと(『中右記』)は、長快の政治力をも示すものとされた。 しかし、これらの事のみでは、長快自身はともかく、長快の死後も別当を重代職とすることは難しい。そこで、別当家を貴種に結びつけ、別当家による職位の世襲を正統化することが図られた。そのために熊野別当家の系図が作成され、別当職が長快以前から代々世襲されてきたとの主張がなされた。そのような事情から作成された熊野別当家系図は数種が今日に伝えられている。熊野別当系図は、系図所載の人物やその事跡を種々の文献や同類系図の記述にてらして比較検討するという考証学的視点から試みられてきたほか、熊野別当系図を熊野詣, 僧綱補任, 寺社, 庄園などの記録にてらして吟味し, 別当家の成立や, 在地領主家をあとづけたり, 熊野詣などの際の別当の働きを分析する研究が進められたことによる虚像と実像の両面が解明されてきている。 熊野別当家の系図には数多くものがあるが、中世末までに熊野三山で成立した主要なものを挙げると、「熊野別当代々次第」、「熊野別当代々記」などのように、歴代別当について補任年、在任期間、親子兄弟など続柄などを付記した歴代記の形式を取るもの、罫線で親子兄弟関係を図示した「熊野別当系図」(『群書類従』6下「那智系図」「目良系図」〈東京大学史料編纂所影写本〉)、歴代別当やその在位年数を簡潔に書き記した「熊野山本宮別当次第」(「諸山縁起」『寺社縁起』、岩波書店〈日本思想大系20〉)といった形式のものが見られる。 一般に系図においては、中興の祖が実在の創始者で、系図上初代や初期の人物として挙げられる人物や人物に関する記述は系譜の権威を高めるために付け加えられることが少なくない。熊野別当系図においてもそうしたことは当てはまり、熊野別当の熊野三山支配の正統性を人々に認めさせる為に、いくつもの虚構を含む系図が鎌倉時代初期に作られており、別当家の出自が熊野支配の正統性を根拠付けるものとなるための工夫が凝らされている。 最も広く知られている『紀伊続風土記』所収の「熊野別当代々次第」では、熊野別当家の初代を弘仁3年(812年)10月18日に補任された快慶としている。快慶は、左大臣藤原冬嗣と榎本道信の嫡女の子とされた。この他、10代の泰救が、9代の殊勝の娘と藤原北家出身の左近衛中将藤原実方を両親としたとしており、初代と10代の2度にわたり藤原氏の血統に連なるとして、貴種の家柄を強調している。「熊野別当代々次第」には、複数の伝本が知られるが、新宮に伝来したことを示す記述が見られる(『熊野速玉大社古文書古記録』所収本、『続群書類従』本)。 しかし、「熊野別当代々次第」では、これらの記述と同時に14代の宗賢について、快慶の血筋を引かないにもかかわらず別当職に就任したがために、三山衆徒の不満を買い、殺害されたともしている。この記述や前述の増皇の事件を併せて考えると、こうした系図により熊野別当家による重代の正統性が主張されはしたものの、重代はあくまで三山衆徒の推挙と支持を得られる限りという限界の中にあったことを示している。 こうした別当家側の主張に対し、同時代の反応はどうであったろうか。鎌倉時代初期に熊野修験によって編纂された『諸山縁起』所収の「熊野本宮別当次第」では、熊野別当の初代として、熊野権現の御宝前で初めて勤行を行った禅洞を初代別当とし、そこから2代を隔てて増皇の名を挙げ、次いで殊勝から長快に至る系譜(宗賢を除く)を示している。また、鎌倉時代末に京都で編纂された『二中歴』所収の「熊野別当」では、最初に増皇の名を挙げ、殊勝から長快までの名を列挙している(ただし宗賢は別当ではなかったとされる)。いずれの系図も、藤原氏との系図上の結びつきには言及しておらず、別当家側の貴種とのつながりの主張は容れられていない事が分かる。とはいえ、両者とも殊勝以下の系図と別当職の世襲は認めていたようである。
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