寺社縁起
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上記の民話に登場する龍角寺、龍腹寺、龍尾寺とは、千葉県印旛郡栄町の龍角寺、同県印西市の龍腹寺、同県匝瑳市の龍尾寺である。寺の縁起には上記の昔話の元になった伝承が含まれているが、この伝承は、享保7年(1722年)に佐倉藩士の磯辺昌言が著した『佐倉風土記』で紹介されたことで広く知られるようになった。その後、安政2年(1855年)の『利根川図志』(赤松宗旦著)や大正2年(1913年)の『千葉県印旛郡誌』にも収録された。こんにちも、「雨を降らせた竜」や「三つざきにされた龍神さま」といった題で出版されるなどして語り継がれている。 こんにち残る龍角寺の縁起は、文化5年(1808年)に写筆されたものだとされる。縁起によれば、寺は元々は「龍閣寺」という名前であった。当時は下総国埴生郡と呼ばれていた場所に、和銅2年(709年)、空から現れた龍女が一晩で寺の建物を作ったとされている。縁起には次のような伝承が含まれている。寺ができてから約二十年が過ぎた天平3年(731年)、聖武天皇の頃に、国中がひどい旱魃に見舞われた。天皇の命により各地で雨乞いが行われたが効果はなかった。龍女が建立したことから降雨の霊験あらたかとされていた龍閣寺にも雨乞いが命じられ、釈命上人とその弟子達らが妙法蓮華経(法華経)などを読誦するなどの雨乞いを行った。そうした折、釈命上人の説法のさなかに、南沼の主である龍が大柄な老人の姿をとって現れ、「寺で上げられたお経のおかげで自分の罪が消えた」と話した。釈命上人が雨を願うと、老人は「自分は小龍であるが、龍王に逆らってでも人々を救うために雨を降らせる」と答えた。老人の姿がかき消えると間もなく雨が降り出した。雨は7日7晩も降り続き、農作物は勢いを取り戻した。雨がやんだ後、釈命上人と村人達が印旛沼に行くと、龍が去る前に言ったとおり、胴体が3つに分断された龍のなきがらが落ちていた。龍の最後の望みに沿って、頭の部分を龍閣寺(のちに龍角寺と改名)に、腹部を地蔵堂(のちに龍腹寺となる)に、尾を大寺(のちに龍尾寺となる)に納めたという。『利根川図志』は「天竺山龍角寺」の題で、『佐倉風土記』の記述としてこの伝承を紹介している。 龍腹寺は、龍角寺の釈命上人が雨乞いの祈祷の際に死んだ龍の腹部を納めるために開いた寺だとされている。『利根川図志』では「天龍山龍腹寺」の題で寺の伝承を紹介しているが、寺は当初は龍福寺という名前であり、龍の腹部を納めたことから龍腹寺の名に変えたとしている。いっぽうで『利根川図志』は、天和元年(1681年)につくられた『勝光寺略縁起』での伝承も記している。『略縁起』によれば、龍腹寺は古くは慈雲山延命院といい、大同2年(807年)の空海の上奏による七堂伽藍の建築後に慈雲山勝光寺延命院の号を受けた。その後の延喜17年(917年)、旱魃に際し天皇の命による雨乞いを行なった時、龍の奇跡を伴う効験があったことから、天龍山龍腹寺の号を受けたという。 龍尾寺の縁起は明暦元年(1655年)に写筆されたとされ、それまでにも12回の転写があったという。その後、昭和59年(1984年)に弘法大師入定1500年を記念して『龍尾寺略縁起』が制作・刊行された。『略縁起』によれば、釈命上人による雨乞いは元明天皇の世であった和銅2年に行われたとされている。雨乞いが始まると、惣領村の海岸に龍神が現れ、空に向かっていった。その際に龍神の尾が垂れた場所が尾垂惣領村(のち尾垂村)となった。空に昇った龍は、間もなくその体が3つにちぎれて落下したが、直後に強い雨が降り始めた。竜の頭は埴生庄に、腹は印西庄、尾は北条庄大寺郷に落ちた。大寺にあった寺に尾が葬られたことで、釈命上人が寺に「龍尾寺」と名付けたという。しかしこの縁起には印旛沼への言及がない。 龍角寺は天台宗、龍腹寺は創建時は真言宗で後に天台宗、龍尾寺は本堂陣内様式が天台宗の系統であり一時天台宗であったが後に真言宗に属しているという。天台宗など密教に関連のある宗教では、龍王に対する請雨祈祷がしばしば行われていた。龍王とはインドの蛇神・ナーガが仏教に取り入れられた姿で、降雨をもたらすとされていた。印旛沼の龍伝承とは、天台宗の経典である妙法蓮華経(法華経)の教えをわかりやすい形で人々に広めるためにつくられたとも考えられており、その場合、天台宗の普及が目的であったと推定されうる。
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