寺社奉行への再度の訴え
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/24 18:17 UTC 版)
「石徹白騒動」の記事における「寺社奉行への再度の訴え」の解説
石徹白豊前側から離反した上杉左門によれば、石徹白では豊前派の社人らが郡上藩の役人と結んで勢力を振い続けており、当面、追放社人らの訴えが実りそうな情勢ではないとのことであった。しかし豊前の右腕であった左門の加勢は追放社人を力づけ、上村十郎兵衛、上村五郎右衛門、植村七右衛門の3名を代表として、新たな訴えを行うこととなった。 82名の社人と家持の6名の家来が署名した訴状を持参した上村十郎兵衛らは、宝暦7年(1757年)11月、再度寺社奉行の本多忠央に訴状を提出した。今回も訴状は受理はされたが、やはり全く寺社奉行の吟味は進まなかった。500余名の追放から2年が経過した宝暦7年(1757年)末には、追放社人の餓死者は62名に達した。追放社人の困難な状態が極限に達しているのにもかかわらず全く進展しない訴訟に、追放された社人たちの中から江戸で寺社奉行に訴状を提出した上村十郎兵衛らが、本当に訴状を提出したのか疑う声が出始める事態となった。
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