熊野三山の成立までとは? わかりやすく解説

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熊野三山の成立まで

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 14:45 UTC 版)

熊野那智大社」の記事における「熊野三山の成立まで」の解説

熊野権現金剛蔵王宝殿造功日記によれば孝昭天皇の頃にインドから渡来した裸形上人十二所権現祀ったとされ、また『熊野略記』では仁徳天皇の頃に鎮座したとも伝えられるが、創成詳細不明熊野那智大社熊野三山中でも熊野坐神社本宮)・熊野速玉大社新宮)の二社とは異なり山中那智滝神聖視する原始信仰に始まるため、社殿創建されたのは他の二社よりも後である。当初那智滝正面にある現・飛瀧神社の地に社殿があった。 一説には、那智山の奥にある妙法山登るための禊祓の地だった那智滝聖地化し、夫須美神が勧請されて当社滝本創建されたともいう。 祭神熊野夫須美大神であるが事解男命事解之男神)とする説がある。その熊野夫須美大神伊邪那美神とされるが、熊野久須毘命とする説もある。 仁徳天皇5年317年)に社殿現在地移転されとされる大同元年806年)の『新抄格勅符抄』には天平神護2年766年熊野速玉男神新宮主神とともに熊野牟須美神記述があり、それぞれ神封戸が4戸あてられている。しかし、その後貞観元年859年1月27日同年5月28日貞観5年863年3月2日の速玉神と坐神(本宮主神)が従五位上に昇階した事に関する日本三代実録』の記事に牟須美神(ないし夫須美神)の記述がない。延長5年927年延喜式神名帳牟婁郡6座中にも熊野速玉神社熊野坐神社の二社のみが書かれている一方永観2年984年)の『三宝絵詞』では熊野両所として速玉神とともに当社主神の夫須美神を取り上げている。本宮新宮併せて熊野三山とする記述永保3年1083年9月4日の『熊野本宮別当三綱大衆等解』が最も早くこれまでには三山共通の三所権現祀る神社として成立していたと考えられる。また『中右記』の天仁2年1109年10月27日条の藤原宗忠らの参拝記録から、この頃までに現在の社地遷祀されていたとされる

※この「熊野三山の成立まで」の解説は、「熊野那智大社」の解説の一部です。
「熊野三山の成立まで」を含む「熊野那智大社」の記事については、「熊野那智大社」の概要を参照ください。

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