熊野の民俗・信仰と妙法山
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 14:18 UTC 版)
「阿弥陀寺 (和歌山県那智勝浦町)」の記事における「熊野の民俗・信仰と妙法山」の解説
那智山の一角に在する阿弥陀寺は、熊野の民俗や信仰とも深い関わりを持っている。 覚心は臨済宗興国寺派の宗祖として知られるが、念仏だけでなく真言をも修し、高野聖のなかでも萱堂聖の宗祖でもある。阿弥陀寺は近世中期まで、那智山の諸堂の造営・修覆にあたる那智七本願の一角を占めたが、阿弥陀寺に属する勧進聖の組織は覚心が阿弥陀寺を再興する際に築いたものと見られている。熊野三山の勧進を担った熊野山伏や熊野比丘尼による唱導の際に絵解きされた那智参詣曼荼羅や熊野観心十界曼荼羅は妙法山をモデルにしたと言われ、那智参詣曼荼羅には妙法山詣が描かれている。 妙法山はまた、熊野における特異な葬送民俗伝承との関係が深い。熊野では、死者の枕元に供える3合の枕飯が炊き上がるまでの間、死者の霊魂は、枕元に手向けられた樒(しきみ)の葉を手にして妙法山に参詣し、鐘をつくとの伝承(『紀伊続風土記』)から、阿弥陀寺の鐘は「亡者の一つ鐘」と呼ばれ、「人なきに鳴る」と称される。奥の院周辺はとくに樒山(しきみやま)とも呼ばれるが、この名は死者が携えてきた樒が奥の院周辺に落とされるとの伝承によるものである。 こうした民俗伝承は、覚心による再興後の阿弥陀寺が山岳霊場となり、念仏と分骨・分髪の寺院となったことと関係しているが、分骨・分髪や死者供養の習俗は今も続けられている。
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