熊野の最期
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熊野は最後の1ヶ月間に魚雷6本(もしくは8本)、爆弾7発(もしくは10発)命中という被害を受けた。また乗員は本土帰還を目指して対空戦闘に応急修理にと奮闘したが帰還は果たせなかった。そこで最後の1ヶ月の被害とその応急修理を中心に詳細を記す。 1944年10月25日7時24-25分 - サマール沖海戦でフレッチャー級駆逐艦ジョンストンが発射した魚雷1本が艦首に命中。艦首の抵抗のため速力12ノットに低下。旗艦を鈴谷に変更。 17時15分 - サンベルナルジノ海峡で艦載機の攻撃を受ける。至近弾により左舷缶室に浸水。 10月26日8時10分 - アメリカ軍機動部隊艦載機の急降下爆撃を受ける。艦橋左舷、煙突付近に3発命中し右舷缶室にも被害。一時航行不能。10ノットでコロンに向かう。途中3回空襲を受けたが被害無し。 18時30分 - 同日コロン到着。燃料補給後、駆逐艦沖波の護衛でマニラへ向かう。 10月28日 7時30分、マニラ到着。特務艦隠戸に横付しマニラ第103工作部による艦首の応急修理を受けた。機関部を整備し速力10ノット発揮可能。 10月29日 アメリカ軍第38任務部隊艦載機290機によるマニラ空襲。熊野に被害はなかった。 11月4日 - 回航準備完了。艦首波防装置により速力18ノット可能。 11月5日1時00分 - 重巡青葉と共にマニラを出港、マタ31船団と合同。 18時30分 - ルソン島のサンタクルーズに到着。 11月6日7時00分 - サンタクルーズを出港。船団はリンガエン湾西方でアメリカ軍の潜水艦(ブリーム・ギターロ・レイトン・レイの4隻)の攻撃を受けた。ギターロは「カゴの中の最大のスモモ=熊野」に魚雷9本を発射し、爆発音から3本命中を主張。 9時20分 - 左舷中部から正横約100 m海面に大爆音とともに巨大な水柱が上がり、更に続いて右後方約3000 mの陸岸に水柱が上がる。熊野から魚雷航跡確認できず。 9時55分 - 熊野は潜望鏡を発見し、取り舵で魚雷を回避。ブリーム、アメリカ軍時間8時43分に熊野に対し魚雷4本を発射、命中音2回を確認する。 10時40分 - 青葉前方に潜望鏡を発見する。 10時42分 - 潜望鏡を発見、魚雷6本を取舵で回避、爆雷8個を投下・2発命中により敵潜撃沈と記録。アメリカ軍時刻9時43分、レイトンが魚雷6本を発射して3本の命中を確認し熊野撃沈と錯覚。 10時48分 - 15ノットで航行中、魚雷4本を右舷至近距離に発見する。魚雷2本が艦首右舷および右舷機械室附近に命中。右舷のバルジに幅5m、長さ10mの破孔が生じた。全機関室が満水となり傾斜11度、既に13mもがれていた艦首は更に15mが脱落し、計28mを喪失した。一番砲塔は前に傾き、熊野の各所で浸水被害が生じた。被雷位置は北緯6度11分、東経119度44分。一方で熊野に魚雷4本を発射したレイは潜航退避しており、1時間後に浮上すると停止した熊野とタンカーを確認した。この後、レイ(ブリームとも)は海中の峰に座礁して浸水、熊野に対する再攻撃を断念した。熊野は1時間45分の間に23本の魚雷を発射されていた事になる。 10時50分 - アメリカ軍機による空襲を懸念して自艦の魚雷1本を投棄。 11時00分 - 青葉は『われ曳航能力なし』と信号し、船団に続行した。青葉乗組員は帽子を振って別れを告げたという。2D型戦時標準貨物船道了丸(日本郵船、2,274トン)、駆潜艇18号・37号が救援のため残置された。 11時30分 - 右傾斜8度に減少。道了丸に曳航を打診するも、重量差が大きいため断られる。 午後になり道了丸に再度打診し、リンガエン湾まで曳航することとなる。 14時25分 - 応急処置に成功、右傾斜11度で安定。曳航作業進まず。 18時30分 - 右傾斜4度、浸水量約5000トンと推定。 20時00分 - 道了丸による曳航成功。 11月7日7時00分 - 向い潮により道了丸による曳航前進困難。第18号海防艦、第26号海防艦が合流し、道了丸の補助曳航を行い、苦労しながらサンタクルーズへ向かう。 16時20分 - サンタクルーズ到着。艦首部喪失のため、後甲板に搭載していた1.5トン錨を艦尾から投入して固定。第21号掃海艇、熊野救援命令を受領。 11月8日19時00分 - 第21号掃海艇がサンタクルーズに到着し、熊野警戒任務に就く。 11月9日13時5分 - 第21号掃海艇、熊野の艦尾に投錨し、繋留索を接続。 19時45分 - 台風による暴風雨で走錨し、座礁の危機があったものの事なきを得る。熊野の走錨により第21号掃海艇の左舷に熊野が接触。熊野に被害は無かったが、第21号掃海艇の左舷45番フレーム付近が変形して浸水した他、二番カッターが破損する。[要出典] 復水器の破損や蒸気漏れのため台湾(高雄)到着までに必要な真水500tが不足、ドラム缶を使い川から真水を毎日30tずつ運ぶ。艦首部をはじめ、損傷箇所の補強・応急修理を行う。 11月12日 - 特設運送船慶州丸(拿捕船/大阪商船委託、671トン/旧英救難船Henry Keswick)と護衛の第20号駆潜艇が到着。 11月15日 - 慶州丸及び第20号駆潜艇、マニラへ向け出港。[要出典] 11月16日17時12分 - 第21号掃海艇、熊野に横付けして真水の補給と重油の移載を行う。 マニラ停泊中の特設掃海艇第21長運丸(長崎合同汽船、195トン)に、熊野の警護を行うよう命令が下った。[要出典] 11月17日5時10分 - 第21長運丸、サンタクルーズ到着。警戒艇は第21長運丸に交代する。 13時5分 - 第21号掃海艇、熊野に横付けし真水の補給と重油の移載を開始。 24時00分 - 第21号掃海艇、マニラに向かうべく出港。 11月19日 - F6Fヘルキャット延べ32機に機銃掃射され、戦死4名、重軽傷者19名を出す。 11月20日 - 係留したまま試運転を行い、一軸運転に成功するも蒸気漏洩多し。 11月21日 - 速力6ノット発揮可能になる。同日 - 第七戦隊解隊。熊野は利根と共に第五戦隊に編入された。 11月24日 - 軽巡洋艦八十島(旧寧海級巡洋艦平海)と戦車運搬艦3隻(112号、142号、161号)に熊野の戦傷者十数名を移乗させ、マニラへの移送を依頼する。 11月25日7時00分 - F6F十数機が来襲、警戒艇第21長運丸を攻撃して炎上させる。 9時00分 - アメリカ軍機約90機が来襲、八十島以下4隻を攻撃する。船団は全滅し、便乗していた熊野戦傷者全員戦死。 12時10分 - 第21長運丸が爆沈。 14時30分 - 米空母タイコンデロガの艦載機(F6Fヘルキャット8、SB2Cヘルダイバー13、TBFアベンジャー9、計30機)の空襲が始まる。 14時40分 - 魚雷5本・爆弾4発が命中。傾斜が増し、左舷へ転覆する。 15時15分 - 沈没。脱出者はF6Fヘルキャット1機、TBFアベンジャー2機の機銃掃射を浴びた。 15時35分 - アメリカ軍機は去り、桟橋から派遣された内火艇やカッターボートでの救助が始まった。沈没までに99名が戦死、沈没時の戦闘で熊野の人見艦長・真田副長・鳥越主計長以下399名が戦死した。当時生存者は636名(准士官以上51名、下士官兵554名とも)であったが、490名は陸上部隊に編入されたという記録が残る、その後の陸戦(マニラの戦い)で、更に497名が戦死したとされる。 1945年(昭和20年)1月20日、熊野は除籍された。
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