熊野の最期とは? わかりやすく解説

熊野の最期

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/21 18:21 UTC 版)

熊野 (重巡洋艦)」の記事における「熊野の最期」の解説

熊野最後1ヶ月間に魚雷6本(もしくは8本)、爆弾7発(もしくは10発)命中という被害受けた。また乗員本土帰還目指し対空戦闘応急修理にと奮闘した帰還果たせなかった。そこで最後1ヶ月被害とその応急修理中心に詳細を記す。 1944年10月25日7時24-25分 - サマール沖海戦フレッチャー級駆逐艦ジョンストン発射した魚雷1本が艦首命中艦首抵抗のため速力12ノット低下旗艦鈴谷変更17時15分 - サンベルナルジノ海峡艦載機攻撃を受ける。至近弾により左舷缶室に浸水10月26日8時10分 - アメリカ軍機動部隊艦載機急降下爆撃を受ける。艦橋左舷煙突付近に3発命中し右舷缶室にも被害一時航行不能10ノットコロンに向かう。途中3回空襲受けた被害無し18時30分 - 同日コロン到着燃料補給後、駆逐艦沖波護衛マニラへ向かう。 10月28日 7時30分マニラ到着特務艦隠戸に横付しマニラ103工作部による艦首応急修理受けた機関部整備し速力10ノット発揮可能。 10月29日 アメリカ軍第38任務部隊艦載機290機によるマニラ空襲熊野被害はなかった。 11月4日 - 回航準備完了艦首波防装置により速力18ノット可能。 11月5日1時00分 - 重巡青葉と共にマニラ出港マタ31船団合同18時30分 - ルソン島サンタクルーズ到着11月6日7時00分 - サンタクルーズ出港船団リンガエン湾西方アメリカ軍潜水艦(ブリーム・ギターロ・レイトン・レイの4隻)の攻撃受けたギターロは「カゴの中の最大スモモ熊野」に魚雷9本を発射し爆発音から3本命中主張。 9時20分 - 左舷中部から正横約100 m海面に大爆音とともに巨大な水柱上がり、更に続いて後方3000 mの陸岸に水柱上がる熊野から魚雷航跡確認できず。 9時55分 - 熊野潜望鏡発見し取り舵魚雷回避ブリームアメリカ軍時間8時43分に熊野対し魚雷4本を発射命中音2回を確認する10時40分 - 青葉前方潜望鏡発見する10時42分 - 潜望鏡発見魚雷6本を取舵回避爆雷8個を投下・2発命中により敵潜撃沈記録アメリカ軍時刻9時43分、レイトン魚雷6本を発射して3本命中確認し熊野撃沈錯覚10時48分 - 15ノット航行中魚雷4本を右舷至近距離発見する魚雷2本が艦首右舷および右舷機械室附近命中右舷バルジに幅5m長さ10mの破孔生じた全機関室が満水となり傾斜11度、既に13mもがれていた艦首は更に15mが脱落し、計28mを喪失した。一番砲塔前に傾き熊野各所浸水被害生じた被雷位置北緯6度11分、東経11944分。一方で熊野魚雷4本を発射したレイ潜航退避しており、1時間後に浮上する停止した熊野タンカー確認したこの後レイブリームとも)は海中の峰に座礁して浸水熊野対す再攻撃断念した熊野1時間45分の間に23本の魚雷発射されていた事になる。 10時50分 - アメリカ軍機による空襲懸念して自艦の魚雷1本を投棄1100分 - 青葉は『われ曳航能力なし』と信号し船団続行した青葉乗組員帽子振って別れ告げたという。2D型戦時標準貨物船道了丸(日本郵船、2,274トン)、駆潜艇18号37号が救援のため残置された。 1130分 - 右傾8度減少道了丸に曳航打診するも、重量差が大きいため断られる午後になり道了丸に再度打診しリンガエン湾まで曳航することとなる。 14時25分 - 応急処置成功右傾11度安定曳航作業進まず18時30分 - 右傾4度浸水量約5000トン推定2000分 - 道了丸による曳航成功11月7日7時00分 - 向い潮より道丸による曳航前進困難。第18号海防艦、第26海防艦合流し道了丸の補助曳航行い苦労しながらサンタクルーズへ向かう。 16時20分 - サンタクルーズ到着艦首部喪失のため、後甲板搭載していた1.5トン錨を艦尾から投入して固定第21号掃海艇熊野救援命令受領11月8日1900分 - 第21号掃海艇サンタクルーズ到着し熊野警戒任務に就く。 11月9日13時5分 - 第21号掃海艇熊野艦尾投錨し繋留索を接続1945分 - 台風による暴風雨走錨し、座礁危機があったものの事なきを得る熊野走錨により第21号掃海艇左舷熊野接触熊野被害無かったが、第21号掃海艇左舷45フレーム付近変形して浸水した他、二番カッター破損する。[要出典] 復水器破損蒸気漏れのため台湾高雄到着までに必要な真水500tが不足、ドラム缶使い川から真水毎日30tずつ運ぶ。艦首部をはじめ、損傷箇所補強応急修理を行う。 11月12日 - 特設運送船慶州丸(拿捕船/大阪商船委託、671トン/旧英救難Henry Keswick)と護衛第20号駆潜艇到着11月15日 - 慶州丸及び第20号駆潜艇マニラへ向け出港。[要出典] 11月16日17時12分 - 第21号掃海艇熊野横付けして真水補給重油の移載を行う。 マニラ停泊中の特設掃海艇21長運丸(長崎合同汽船195トン)に、熊野警護を行うよう命令下った。[要出典] 11月17日5時10分 - 第21長運丸、サンタクルーズ到着警戒艇は第21長運丸に交代する13時5分 - 第21号掃海艇熊野横付け真水補給重油の移載を開始24時00分 - 第21号掃海艇マニラに向かうべく出港11月19日 - F6Fヘルキャット延べ32機に機銃掃射され、戦死4名、重軽傷19名を出す。 11月20日 - 係留したまま試運転行い一軸転に成功する蒸気漏洩多し11月21日 - 速力6ノット発揮可能になる同日 - 第七戦隊解隊熊野利根と共に第五戦隊編入された。 11月24日 - 軽巡洋艦八十島(旧寧海級巡洋艦平海)と戦車運搬艦3隻(112号、142号、161号)に熊野戦傷者十数名を移乗させ、マニラへの移送依頼する11月25日7時00分 - F6F十数機が来襲警戒艇第21長運丸を攻撃して炎上させる。 9時00分 - アメリカ軍機約90機が来襲八十島以下4隻を攻撃する船団全滅し便乗していた熊野戦傷者全員戦死12時10分 - 第21長運丸が爆沈14時30分 - 米空母タイコンデロガ艦載機F6Fヘルキャット8、SB2Cヘルダイバー13TBFアベンジャー9、計30機)の空襲が始まる。 14時40分 - 魚雷5本・爆弾4発が命中傾斜増し左舷転覆する15時15分 - 沈没脱出者はF6Fヘルキャット1機、TBFアベンジャー2機の機銃掃射浴びた15時35分 - アメリカ軍機は去り桟橋から派遣され内火艇カッターボートでの救助始まった沈没まで99名が戦死沈没時の戦闘熊野人見艦長真田副長鳥越主計長以下399名が戦死した当時生存者は636名(准士官以上51名、下士官兵554名とも)であったが、490名は陸上部隊編入されたという記録が残る、その後陸戦マニラの戦い)で、更に497名が戦死したとされる1945年昭和20年1月20日熊野除籍された。

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