孝昭天皇とは? わかりやすく解説

こうしょう‐てんのう〔カウセウテンワウ〕【孝昭天皇】

読み方:こうしょうてんのう

記紀で、第5代の天皇。懿徳(いとく)天皇の皇子。名は観松彦香殖稲(みまつひこかえしね)。都を大和の葛城郡掖上(わきのかみ)に移し、池心宮(いけこころのみや)と称した。


孝昭天皇


孝昭天皇 掖上博多山上陵
(こうしょうてんのう わきのかみのはかたのやまのえのみささぎ)

御陵写真 陵印
■代   数 :第5代
■天 皇 名 :孝昭天皇
(こうしょうてんのう)
■御   父 :懿徳天皇
■御   母 :皇后天豐津媛命
■御 陵 名 :掖上博多山上陵
(わきのかみのはかたのやまのえのみささぎ)
■陵   形 :山形
■所 在 地 :奈良県御所市大字三室
■交通機関等 :JR・近鉄「御所」下車  南へ1km
■陵印保管場所 :畝傍陵墓監区事務所

孝昭天皇

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2026/09/29 01:48 UTC 版)

孝昭天皇
『御歴代百廿一天皇御尊影』より「孝昭天皇」(部分)

在位期間
孝昭天皇元年1月9日 - 孝昭天皇83年8月5日
時代 伝承の時代
先代 懿徳天皇
次代 孝安天皇

誕生 懿徳天皇5年
崩御 孝昭天皇83年8月5日 113歳
陵所 掖上博多山上陵
漢風諡号 孝昭天皇
諱 観松彦香殖稲天皇(紀)
御真津日子訶恵志泥命(記)
続柄 懿徳天皇皇子
神武天皇玄孫
父親 懿徳天皇
母親 天豊津媛命(安寧天皇皇孫)(紀)
賦登麻和訶比売命(記)
兄弟 武石彦奇友背命
皇后 世襲足媛
子女 天足彦国押人命
日本足彦国押人尊(孝安天皇)
皇居 掖上池心宮(葛城掖上宮)

欠史八代の1人。
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孝昭天皇(こうしょうてんのう、懿徳天皇5年 - 孝昭天皇83年8月5日)は、日本の第5代天皇(在位:孝昭天皇元年1月9日 - 孝昭天皇83年8月5日)。『日本書紀』での名は観松彦香殖稲天皇。欠史八代の1人であり、実在性については諸説ある。

略歴

大日本彦耜友天皇(懿徳天皇)の皇子。母は息石耳命の娘の天豊津媛命(『日本書紀』)。兄弟として、同母弟に武石彦奇友背命(多芸志比古命)がいる。父帝が崩御した翌々年の1月に即位。同年7月、 掖上池心宮 (わきがみのいけごころのみや)へ都を移す。即位29年、尾張連祖の瀛津世襲の妹の世襲足媛を皇后として天足彦国押人命、日本足彦国押人尊(後の孝安天皇)を得た。即位83年、崩御。

名

  • 観松彦香殖稲天皇 (みまつひこかえしねのすめらみこと):『日本書紀』
  • 御真津日子訶恵志泥命 (みまつひこかえしねのみこと):『古事記』
  • 大三間津日子命 (おおみまつひこのみこと):『播磨国風土記』
  • 弥麻都比古命 (みまつひこのみこと):『播磨国風土記』

漢風諡号である「孝昭」は、8世紀後半に淡海三船によって撰進された名称とされる[1]。

事績

『古事記』・『日本書紀』共に系譜記載のみに限られ、欠史八代の1人に数えられる。

系譜

系図

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
2 綏靖天皇
 
神八井耳命
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
3 安寧天皇
 
〔多氏〕
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
4 懿徳天皇
 
息石耳命
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
5 孝昭天皇
 
天豊津媛命
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
6 孝安天皇
 
天足彦国押人命
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
7 孝霊天皇
 
〔和珥氏〕
 
押媛
(孝安天皇后)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
8 孝元天皇
 
倭迹迹日百襲姫命
 
吉備津彦命
 
稚武彦命
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
彦太忍信命
 
9 開化天皇
 
大彦命
 
 
 
 
 
〔吉備氏〕
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
屋主忍男武雄心命
 
 
 
 
 
 
〔阿倍氏〕
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
武内宿禰
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
〔葛城氏〕
 
 
 
 
 

后妃・皇子女

(名称は『日本書紀』を第一とし、括弧内に『古事記』ほかを記載)

年譜

『日本書紀』の伝えるところによれば、以下の通りである[3]。機械的に西暦に置き換えた年代については「上古天皇の在位年と西暦対照表の一覧」を参照。

宮

孝昭天皇 掖上池心宮阯碑
(奈良県御所市)

宮(皇居)の名称は、『日本書紀』では掖上池心宮(わきのかみのいけごころのみや)、『古事記』では葛城掖上宮[4]。

宮の伝説地は、現在の奈良県御所市池之内周辺と伝承される[4][2]。同地には「掖上池心宮阯」碑が建てられている(北緯34度27分18.10秒 東経135度44分42.52秒 / 北緯34.4550278度 東経135.7451444度 / 34.4550278; 135.7451444 (伝・掖上池心宮阯))[5]。この説は、『日本書紀』推古天皇21年(613年)11月条に造られた「掖上池」の所在地を付近に想定したことによる[4]。実際に掖上池が「掖上池心宮」の宮名の由来であったとすれば、宮の語り出しが推古朝の造池以後となると指摘される[4]。

陵・霊廟

孝昭天皇 掖上博多山上陵
(奈良県御所市)

陵 (みささぎ)の名は 掖上博多山上陵 (わきのかみのはかたのやまのえのみささぎ)。宮内庁により奈良県御所市大字三室にある俗称「博多山」に治定されている( 北緯34度27分27.86秒 東経135度43分51.49秒 / 北緯34.4577389度 東経135.7309694度 / 34.4577389; 135.7309694 (掖上博多山上陵(孝昭天皇陵)))[6][7][8]。宮内庁上の形式は山形。

陵について『日本書紀』では前述のように「掖上博多山上陵」、『古事記』では「掖上博多山上」の所在とある。一方『先代旧事本紀』では崩御の翌年に葬ったと見え、崩御38年後に葬ったとする『日本書紀』の記録と相違することから、後者を改葬と見る説もある[8]。『延喜式』諸陵寮では「掖上博多山上陵」の名称で大和国葛上郡にあるとし、兆域は東西6町・南北6町、守戸5烟で遠陵としている[8]。しかし後世に所伝は失われ、元禄の探陵で現陵に治定された[8]。陵近くには孝昭天皇の霊を祀る孝昭天皇神社(孝昭宮)があるが、これは古く丘上にあったものを幕末の修補の際に現在の東側隣接地に移したものとなる[8]。

また皇居では、宮中三殿の1つの皇霊殿において他の歴代天皇・皇族と共に孝昭天皇の霊が祀られている。

播磨国風土記

和銅6年(713年)から霊亀元年(715年)にかけて編纂された『播磨国風土記』には記紀には記載のない孝昭天皇にまつわる複数の逸話が残されている[9]。

飾磨の郡

飾磨

飾磨の由来は大三間津日子命(孝昭天皇)が、この地に屋形を造っていたときに大きい鹿が鳴いていた。その声を聞いた大王が「鹿が鳴いているなぁ」と仰せになったので飾磨という名がついた。

讃容の郡

邑宝の里

弥麻都比古命(孝昭天皇)が、この地で井戸を開いて干し飯を召し上がった際、「私は多くの国を占有した」と仰せになった。そのためこの地は大の邑(現在の佐用町久崎大避神社付近)という。井戸を開かれた場所は、御井の村(現在の佐用町仁位)と名付けた。

久都野

弥麻都比古命(孝昭天皇)が、「この山は、踏めばきっと崩れるだろう」と仰せになった。そのためこの地を久都野という。その後、改めて宇怒といった。その近辺は山で、中央は野であった。

伝承

春日縣の改名

文安3年(1446年)成立『和州五郡神社神名帳大略注解』巻4補闕所収の『十市氏系図』によると、孝昭天皇の御代に春日縣を十市縣と改め事代主の裔である五十坂彦が初代十市縣主に任命され子孫はその職を世襲することになったと伝わっている[10]。

三輪山 中津磐座

大和国式内名神大社大神神社の社伝によると、孝昭天皇の御代に神託があり大己貴命を三輪山の中津磐座に配祀したと伝えられている[11]。

三輪山 高宮神社

大和国式内名神大社大神神社の社伝によると、”孝昭天皇即位元年(BC475年)四月卯刻上前夜半に三輪山絶頂にある古の大杉の上に、日輪如き火の氣を放つ光が山を照らした。その曉神が天降り、天皇に託宣し「我は日本大國主命なり、今この国に遷り来たれり。我が広前を山田の吉川比古命(久延彦命八世孫川邊足尼の子)に崇秘奉りさせよ。」と謂った。この託宣に依り孝昭天皇は勅を発し吉川比古命を高宮の神主と定めた。”と伝えられている[12]。

大和坐大国魂神社

大和国式内名神大社大和神社の社伝によると、祭神の倭大国魂神は大地主大神として孝昭天皇即位元年(BC475年)に顕現し、禁中で天照大御神と共に奉斎されるようになったと伝えられている[13]。

飛鳥坐神社

大和国式内名神大社飛鳥坐神社の社伝『大神分身類社鈔』によると、飛鳥坐神社四座のうち鴨都味歯八重事代主命社は孝昭天皇の御代に創祀されたと伝えられている[14]。

高鴨阿治須岐託彦根命神社

大和国式内名神大社高鴨神社の社伝によると、高鴨阿治須岐託彦根命神社四座のうち阿遅志貴高日子根命社は孝昭天皇の御代に神殿が造営されたと伝えられている。また配祀の三座も孝昭天皇の御代に創祀されたものとしている[15]。

氷川神社

武蔵国一宮名神大社氷川神社の社伝『氷川大宮縁起』『風土記稿』によると、氷川神社は孝昭天皇三年(BC473年)の創建で、出雲国の杵築大社(出雲大社)を遷して氷川神社の神号を賜ると伝えられている。氷川の名前も出雲の大河である斐伊川にちなむとされている[16]。

楡山神社

武蔵国幡羅郡式内社楡山神社は孝昭天皇の御代の御鎮座とされており、御神紋は「八咫烏」であると伝わっている[17][18]。

新宿下落合氷川神社

東京都新宿区下落合にある新宿下落合氷川神社の社伝によると、当社は孝昭天皇の御代の創建と伝わっている[19]。

箱根神社

相模国足柄下郡国幣小社箱根神社の社伝『筥根山縁起并序』(1191 年成立)によると、第5代孝昭天皇の御代、聖占仙人(しょうぜんしょうにん)が、神山に鎮まります山神の威徳を感應し、駒ヶ岳山頂に神仙宮を開き、次いで利行丈人、玄利老人により、神山を天津神籬とし、駒ヶ岳を天津磐境として祭祀したのに始まる、と伝わっている[20]。

伊豆山神社

伊豆国賀茂郡式内社伊豆山神社の社伝によれば孝昭天皇の御代(BC5世紀~BC4世紀)の創建とされ、当初は日金山(現在の十国峠)山頂にあったとされ、仁徳天皇の御代に現在の社域に遷して奉祀し天皇の勅願所として定めたと伝わっている[21]。

富知神社

駿河国式内社富知神社の社伝によると、創建は孝昭天皇2年(BC464年)丁卯6月之旬とされ、古来浅間神社ができるまで富士大神は大山祇神であったと伝えられている[22]。

富知六所浅間神社

駿河国富士郡式内社富知六所浅間神社の社伝によると、創建は第5代孝昭天皇2年6月10日(BC474年)と伝えられ、第10代崇神天皇が四道将軍を派遣の際、当神社は建沼河別命に厚い崇敬を受け勅幣を奉られたと伝えられている[23]。

若栗神社

尾張国式内社葉栗郡若栗神社の社伝によると、孝昭天皇はこの地に滞在したされ、この地の有力者である興津余会公の娘である世襲足媛を妃としたと伝えられている[24]。

阿須賀神社

和歌山県新宮市阿須賀にある阿須賀神社の社伝によると、当社は孝昭天皇53年(BC423年)3月の創祀とされ『古事記』、『日本書紀』に記されている熊野神邑とされている[25]。

石津神社

和泉国大鳥郡式内社石津神社の社伝によると、第五代孝昭天皇7年(BC469年)の創建とされ、事代主神(戎神)が此の地に五色の石を携え降臨したことに由来し、以来ここを石津と名づけられたと伝わっている[26]。

天降神社

福岡県田川郡川崎町川崎にある天降神社の社伝によると、当社は孝昭天皇49年秋(BC427年)の創建と伝わっている[27]。

狭野神社

日向国諸県郡官幣大社別宮狭野神社の社伝によると、当社は第五代孝昭天皇の御代に神武天皇と吾平津媛を祀る社殿を建てたのがはじまりとされている[28]。また当地は神武天皇御降誕の地であり神社背後の「産婆石」(うべし)付近で生誕されたと伝えられている[29]。

東霧島神社

日向国諸県郡式内社東霧島神社の社伝によると、霧島・諸県地方を代表する奉斎山岳信仰の祈りの宮として祀られ、第五代孝昭天皇の御代に創建されたと伝えられている[30][31]。

考証

実在性

孝昭天皇を含む綏靖天皇(第2代) - 開化天皇(第9代)までの8代の天皇は、『日本書紀』・『古事記』に事績の記載が極めて少ないため「欠史八代」と称される。これらの天皇は、治世の長さが不自然であること、宮・陵の所在地が前期古墳の分布と一致しないこと等から創作性が強いとされる。

一方で宮号に関する原典の存在、年数の嵩上げに天皇代数の尊重が見られること、磯城県主や十市県主との関わりが系譜に見られること等から、全てを虚構とすることには否定する見解もある[32](詳細は「欠史八代」を参照)。

治世の長さが不自然であることは春から夏までの半年間と、秋から冬までの半年をそれぞれ1年と数えていたとする春秋二倍暦説で説明できるとする向きもある。「魏志倭人伝」に「其俗不知正歳四節但計春耕秋収為年紀(その俗、正歳四節を知らず、ただ春耕し秋収穫するを計って年紀と為す)」とあることが根拠として挙げられる。

但し、孝昭・孝安・孝霊の3代に関しては二倍暦ないしは二倍延長と見なして半分に短縮しても在位年数は40年から50年程度と非常に長期間の在位になる上、没年齢も当時の平均寿命を大幅に越えている。

名称

和風諡号である「みまつひこ-かえしね」のうち、「みまつひこ」は後世に付加された美称、末尾の「ね」は神名の末尾に付く「ね」と同義と見て、孝昭天皇の原像は「かえしね(香殖稲 / 訶恵志泥)」という名の古い神であって、これが天皇に作り変えられたと推測する説がある[2]。

風土記考

『播磨国風土記』にはミマツヒコの事績が複数箇所記載されており、幕末から明治・大正・昭和にかけて国学者たちがミマツヒコが孝昭天皇であるかという解釈の検証を綿密に行った[33]。

栗田寛

幕末から明治にかけて活躍した国学者である栗田寛は著書「標注古風土記」の中で、”日本書紀に孝昭天皇の御名が観松彦香殖稲天皇といい飾磨郡で王勅と書かれていることから大三間津日子命は孝昭天皇のほかに考えうる所無し”、と結論付けている[34]。また国造本紀で長国造の条に記載のある観松彦色止命や延喜式阿波国名方郡に御間津比古神社があることにも触れているが、播磨国風土記の大三間津日子命および弥麻都比古命は孝昭天皇のことだと断定している[34]。また倭名鈔に「飾磨郡国府」と記載があることにも言及している[34]。

敷田年治

幕末から明治にかけて活躍した国学者である敷田年治は著書「標注播磨風土記」の中で”播磨国風土記飾磨郡の大三間津日子命は孝昭天皇の御即位前の名であり 讃容郡の弥麻都比古命は同じく孝昭天皇のことである”、と結論付けた[35]。

井上通泰

明治から昭和にかけて活躍した国学者である井上通泰は著書「播磨國風土記新考」の中で”播磨国風土記飾磨郡の大三間津日子命は孝昭天皇だと断定はできないとし、勅といえるのは天皇以外でも宍禾郡川音村の条でアメノヒボコで例があると言及した。また讃容郡の弥麻都比古命も孝昭天皇とするのは再考する必要があるとし、一連の出来事は神代の事績であると考察した。ではこのミマツヒコが神だとするならばいかなる神とするのかという問いには、太古の播磨国、特に中部以西は伊和大神の系統の領域であったことに言及し、おそらく伊和大神の御子のひとりではないか”、と結論付けている[36]。

脚注

  1. ↑ 上田正昭 「諡」『日本古代史大辞典』 大和書房、2006年。
  2. 1 2 3 4 孝昭天皇(古代氏族) & 2010年.
  3. ↑ 『日本書紀(一)』岩波書店 ISBN 9784003000410
  4. 1 2 3 4 掖上池心宮(国史).
  5. ↑ 掖上池心宮(陵墓探訪記<個人サイト>)。
  6. ↑ 天皇陵 - 宮内庁。
  7. ↑ 宮内省諸陵寮編『陵墓要覧』(1934年、国立国会図書館デジタルコレクション)8コマ。
  8. 1 2 3 4 5 掖上博多山上陵(国史).
  9. ↑ 『風土記』岩波書店〈日本古典文学大系 第1期〉、1958年4月5日。ISBN 9784000600026。
  10. ↑ 奈良県教育会 編『大和志料 中巻 改訂』養徳社、1944年、524,606,607頁。
  11. ↑ 奈良県教育会 編『大和志料 中巻 改訂』養徳社、1946年、402頁。
  12. ↑ 奈良県教育会 編『大和志料 中巻 改訂』養徳社、1944年、426-427頁。
  13. ↑ 奈良県教育会 編『大和志料 中巻 改訂』養徳社、1944年、217頁。
  14. ↑ 奈良県教育会 編『大和志料 下巻 改訂版』養徳社、1946年、238頁。 doi:10.11501/1042208。
  15. ↑ 奈良県教育会 編『大和志料 下巻 改訂版』養徳社、1946年、82-83頁。
  16. ↑ 武蔵一宮 氷川神社. “氷川神社について|武蔵一宮 氷川神社”. musashiichinomiya-hikawa.or.jp. 武蔵一宮 氷川神社. 2024年10月30日閲覧。
  17. ↑ 楡山神社. “楡山神社由緒”. nireyama.main.jp. 楡山神社. 2024年10月30日閲覧。
  18. ↑ “楡山神社”. 埼玉県の神社‐埼玉県神社庁. 埼玉県神社庁. 2025年5月13日閲覧。
  19. ↑ “由緒‐新宿下落合氷川神社”. 新宿下落合氷川神社. 新宿下落合氷川神社. 2025年9月2日閲覧。
  20. ↑ 箱根神社. “箱根神社・九頭龍神社・箱根元宮の由緒並に宝物と文化財 | 箱根神社(九頭龍神社)公式ホームページ”. hakonejinja.or.jp. 箱根神社. 2024年10月30日閲覧。
  21. ↑ 戸丸国三郎 (1915年). 伊豆山温泉取締所: “伊豆山案内”. dl.ndl.go.jp. 国立国会図書館. p. 9. 2024年10月30日閲覧。
  22. ↑ 浅間神社 (1934年). “浅間神社史料”. dl.ndl.go.jp. 国立国会図書館. 2025年5月27日閲覧。
  23. ↑ 富知六所浅間神社. “富知六所浅間神社 - 静岡県神社庁”. www.shizuoka-jinjacho.or.jp. 静岡県神社庁. 2024年10月30日閲覧。
  24. ↑ 岩田儀蔵 (1917年). 岩田誉: “葉栗村志稿”. dl.ndl.go.jp. 国立国会図書館. 2025年5月30日閲覧。
  25. ↑ “和歌山県神社庁-阿須賀神社 あすかじんじゃ-”. www.wakayama-jinjacho.or.jp. 和歌山県神社庁. 2025年9月2日閲覧。
  26. ↑ 石津神社. “石津神社|スポット|堺観光ガイド”. 堺観光ガイド. 堺観光コンベンション協会. 2024年10月30日閲覧。
  27. ↑ 大日本神祇会(jp)『福岡県神社誌』 下巻、大日本神祇会福岡県支部、1945年、191頁。 doi:10.11501/1040147。
  28. ↑ 敬神会 編『宮崎県神社誌』敬神会、1932年。 doi:10.11501/1214439。
  29. ↑ 狭野神社. “狭野神社-公式ホームページ”. sanojinjya.web.fc2.com. 狭野神社. 2024年10月30日閲覧。
  30. ↑ 東霧島神社 (2018年8月13日). “神社の紹介 | 東霧島神社”. 東霧島神社 | 霧島六社権現の一つ 厄除開運の神社. 東霧島神社. 2024年10月30日閲覧。
  31. ↑ 都城市みやこんじょPR課. “東霧島神社 - 宮崎県都城市ホームページ”. www.city.miyakonojo.miyazaki.jp. 都城市. 2024年10月30日閲覧。
  32. ↑ 上田正昭 「欠史八代」『日本古代史大辞典』 大和書房、2006年。
  33. ↑ “播磨国風土記のなりたち:播磨広域連携協議会”. www.harima-united.jp. 播磨広域連携協議会. 2026年9月28日閲覧。
  34. 1 2 3 栗田, 寛『標註古風土記』大日本図書、1899年。
  35. ↑ 敷田, 年治『標注播磨風土記』玄同舎、1887年。
  36. ↑ 井上, 通泰『播磨國風土記新考』臨川書店、1983年。

参考文献

関連項目

外部リンク




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