熊野別当の終焉とは? わかりやすく解説

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熊野別当の終焉

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/09 08:17 UTC 版)

熊野別当」の記事における「熊野別当の終焉」の解説

例えば、『二中歴所収の「熊野別当」には、正湛以後1330年代に至るまでの間に、32代から40代まで、長真、長慶、尭湛、長慶再任)、正湛(再任)、定有、湛誉、宗湛、定遍らのべ9人の別当の名前が記されているが、その性格はもはや定かではなく任期すら不確かである。 なお、弘安11年1288年2月付けの「土佐長徳寺氏人連署状」によると、熊野別当熊野三山検校のもとで先達補任身分保証関与するようになっていたようである。残され史料から知られる限り、この時期熊野別当熊野三山対す支配力失い多く衆徒の力を無視できなくなっていたのみならず熊野水軍対す統制力をも失っていたと見られその結果徳治3年1308年)、「西国および熊野浦海賊」が蜂起し太平洋航路権益めぐって鎌倉幕府7年近くにわたる争い繰り広げた。この争い終る頃には、もともと熊野水軍構成していた熊野地方武士勢力は、もはや熊野別当統制服することなく独自の行動をとりはじめ、加えて熊野制圧のために鎌倉幕府派遣していたとみられる小山氏安宅氏などの武士団土着化して勢力拡大しつつあり、熊野地方政治状況熊野別当影響を及ぼすことができなくなっていた。 この後も、高知県長徳寺旧蔵文書2通(13世紀末期)に記載され熊野別当兵庫県英賀神社所蔵梵鐘名(14世紀前期)に明記され熊野別当定有さらには『太平記』や『園太暦』などにも正湛以後熊野別当やその名前が散見されることから、熊野別当による統括体制はこの時点でただちに解体せず、南北朝時代中頃14世紀中頃)に「熊野別当」の呼称消えるまでは形式上存続したものと推定される。『園太暦』の観応元年1350年10月15日条に熊野別当として熊野新宮山西御前託宣を京の熊野三山奉行所注進した快宣が、確実な史料確認される最後熊野別当である。 熊野衆徒中の第一人者であった熊野別当は、白河院による補任所領寄進通じて権力基盤確立し、院や藤原貴族、後には平氏源氏権力を背に、職を世襲しつつ熊野三山統治にあたってきた。しかしながら新宮田辺の両別当家の間での内紛や、承久の乱において上皇側に与したことに対す鎌倉幕府報復により、熊野別当勢力徐々に衰退していった。14世紀以降には衆徒のみならず熊野水軍対す統制力失い、特に、熊野水軍構成する熊野在地地方武士勢力が、個別もしくは互いに連帯して自律的に自らの権益を脅かす鎌倉幕府と争うようになるにおよんで、すでに形骸化していた熊野別当家は完全に熊野在地支配者としての地位失い田辺含めて熊野三山それぞれに独自の道を歩み始めたのである

※この「熊野別当の終焉」の解説は、「熊野別当」の解説の一部です。
「熊野別当の終焉」を含む「熊野別当」の記事については、「熊野別当」の概要を参照ください。

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