熊野別当の終焉
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例えば、『二中歴』所収の「熊野別当」には、正湛以後、1330年代に至るまでの間に、32代から40代まで、長真、長慶、尭湛、長慶(再任)、正湛(再任)、定有、湛誉、宗湛、定遍らのべ9人の別当の名前が記されているが、その性格はもはや定かではなく、任期すら不確かである。 なお、弘安11年(1288年)2月付けの「土佐長徳寺氏人連署状」によると、熊野別当は熊野三山検校のもとで先達の補任・身分保証に関与するようになっていたようである。残された史料から知られる限り、この時期の熊野別当は熊野三山に対する支配力を失い、多くの衆徒の力を無視できなくなっていたのみならず、熊野水軍に対する統制力をも失っていたと見られ、その結果、徳治3年(1308年)、「西国および熊野浦々海賊」が蜂起し、太平洋航路の権益をめぐって鎌倉幕府と7年近くにわたる争いを繰り広げた。この争いが終る頃には、もともと熊野水軍を構成していた熊野地方の武士勢力は、もはや熊野別当の統制に服することなく独自の行動をとりはじめ、加えて熊野制圧のために鎌倉幕府が派遣していたとみられる小山氏・安宅氏などの武士団が土着化して勢力を拡大しつつあり、熊野地方の政治状況に熊野別当は影響を及ぼすことができなくなっていた。 この後も、高知県長徳寺旧蔵の文書2通(13世紀末期)に記載された熊野別当、兵庫県英賀神社所蔵梵鐘名(14世紀前期)に明記された熊野別当定有、さらには『太平記』や『園太暦』などにも正湛以後の熊野別当やその名前が散見されることから、熊野別当による統括体制はこの時点でただちに解体せず、南北朝時代中頃(14世紀中頃)に「熊野別当」の呼称が消えるまでは形式上は存続したものと推定される。『園太暦』の観応元年(1350年)10月15日条に熊野別当として熊野新宮山西御前の託宣を京の熊野三山奉行所に注進した快宣が、確実な史料で確認される最後の熊野別当である。 熊野衆徒中の第一人者であった熊野別当は、白河院による補任や所領の寄進を通じて、権力基盤を確立し、院や藤原貴族、後には平氏や源氏の権力を背に、職を世襲しつつ熊野三山の統治にあたってきた。しかしながら、新宮・田辺の両別当家の間での内紛や、承久の乱において上皇側に与したことに対する鎌倉幕府の報復により、熊野別当勢力は徐々に衰退していった。14世紀以降には衆徒のみならず熊野水軍に対する統制力も失い、特に、熊野水軍を構成する熊野在地の地方武士勢力が、個別もしくは互いに連帯して自律的に自らの権益を脅かす鎌倉幕府と争うようになるにおよんで、すでに形骸化していた熊野別当家は完全に熊野の在地支配者としての地位を失い、田辺を含めて熊野三山はそれぞれに独自の道を歩み始めたのである。
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