熊野三山検校
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熊野三山検校(くまのさんざんけんぎょう)は、京都において熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)の統轄に当った役職で、現地を統括していた熊野別当の上に11世紀末に設置された。
- ^ 関口力は増誉の祖父である藤原隆家が、自身の大宰権帥就任祈願とその御礼のために2度の熊野参詣を行った際に当時の慣行として熊野側に相応の寄進を行ったと推定し、増誉はその恩恵により熊野修行が許され、その後も強い影響力を有したとしている(関口[2007: 71-89])。
- ^ a b 阪本[2005: 25]
- ^ 宮家[1992: 6]
- ^ 宮家[1992: 16]
- ^ 徳永[2002: 84]
- ^ この順峰に対して吉野・大峰から熊野に抜ける行程選定を逆峰(ぎゃくぶ)といい、近世以後はこの逆峰が主流となった。
- ^ 小山[2004: 106-107]。なお、行尊の『金葉和歌集』入撰歌として、後に『小倉百人一首』にも入った「もろともにあはれとも思へ山ざくら花よりほかに知る人もなし」の歌がよく知られている。
- ^ 清水[2008: 214]。もっともこの行尊の巡礼記では、現行の西国33所巡礼と違って巡礼の順序が異なり、大和の長谷寺が1番、山城の御室戸寺(三室戸寺)が33番の結願所になっている。
- ^ 阪本[2005: 49-50]
- ^ a b c 宮家[1992: 15-17]、阪本[2005: 26]
- ^ 宮地[1956]、徳永[2003: 120]
- ^ 阪本[2005: 26]
- ^ 宮家[1992: 22]
- ^ 阪本[2005: 27]
- ^ 高橋修は、三山検校は鎌倉時代のうちに地方霊山に高い支配権を確立し、それを拠点に地方の修験者の掌握を達成していたことを明らかにした(高橋[1991: 19-27])。この見解を踏まえ、長谷川賢二は、鎌倉時代後期の時点ですでに三山検校が末寺の院主や熊野先達を補任するシステムができていたことを説いている(長谷川[1992: 40-42]、[1994: 72-73])。こうした新研究により、熊野三山検校が形式的なものに過ぎなかったとする従来の学説は、再考を迫られている(阪本[2005: 11、64])。
- ^ 阪本[2005: 433-437]
- ^ 阪本[2005: 28]、宮家[2005: 265]
- ^ 宮家[1992: 265]、阪本[2005: 27-28]
- ^ 宮家[1992: 265-268]参照。これに対し、近藤祐介は、13世紀半ばに常住院良尊が補任して以降、基本的に常住院門跡が三山検校を相承したとする酒井彰子「中世園城寺の門跡と熊野三山検校職の相承-常住院から聖護院へ-」(『文化史学』48号、1992年)の説を支持して、14世紀末に大峰修行の儀礼化・体系化を進めた常住院門跡・熊野三山検校の良瑜が聖護院門跡の断絶にあたって自らの後継とする予定であった聖意を聖護院門跡に送り込むとともに熊野三山検校の地位を譲ったことによって熊野三山検校が常住院門跡の重代職から聖護院門跡の重代職に移行したとする。近藤[2017: 143-147, 162-164]
- ^ 宮家[1992: 268]
- ^ 宮家[1992: 121-122]
- ^ 宮家[1992: 126]
- ^ 宮家[1992: 265-268]。さらに長谷川[1989]を参照。
- ^ 宮家[1992: 269]
- ^ 宮家[1992: 293-294]
- ^ 宮家[1992: 294-298]参照。これに対し、近藤祐介は、25代の道澄の前任者である24代道増が天文年間(16世紀中頃)に将軍使節として各地を巡り年行事補任状を発給しつつ、在地山伏の直接掌握を進めたと説く(近藤[2010])。さらに、関口真規子もまた、天文18年(1547年)5月の「聖護院門跡道増修験法度」を挙げ、関東地方では特に熊野先達のみならず修験道全体に聖護院門跡の権威が及んだことを明らかにしている(関口[2008: 35、44])。
- ^ 宮家[1992: 298]
- ^ a b 宮家[1992: 269]
- ^ 国史大辞典編集委員会[1984: 873]
- 1 熊野三山検校とは
- 2 熊野三山検校の概要
- 3 参考文献
- 4 関連項目
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