重臣達の確執
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/30 15:35 UTC 版)
「久世の領内の人間により、岡部の領内の人間が殺された」とする、岡部自休の訴え出を受けて調停が試みられたものの不調に終わり、これを契機として以前からあった家臣団内での反目が表面化し、深刻な対立が発生することとなる。 北ノ庄藩は徳川家康の次男秀康を藩祖として成立したが、秀康の死後、わずか13歳で家督を継いだ忠直の代に藩内では、筆頭家老にして付家老の本多富正を筆頭とする派閥と、結城氏時代から仕える家老今村盛次らの派閥の反目が起こっていた。本多が事件を起こした久世と親しいことから、今村らはこの事件を利用して、藩主忠直の叔父(生母清涼院の弟)である家老中川一茂を引き込み、本多派の排斥を画策する。 事件を受けて今村は本多と共に家老として評定を行うこととなるが、久世と親しい本多と竹島周防守は久世に対して同情的な姿勢であった。今村がこの事を岡部に伝えると岡部は憤り、本多に対して激しく抗議する。今村に不信感を抱いた本多は以後、この事件の評定を避け、問題は長期化する。事件を巡って、久世方には家老本多富正、家老竹島周防守、由木景盛(由木西庵)、上田隼人らが、岡部方には家老今村盛次、家老中川一茂、家老清水孝正、林定正、落合美作らがそれぞれ味方して対立する構図となった。 10月13日、問題を大御所家康に直訴するため、加勢として加わった牧野易貞と共に岡部は駿府に向かったが、藩から、藩内で直接対決するようにとの使者に追いつかれ、帰国した。また、久世方でも由木景盛が幕府に訴え出ている。
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