重興塩谷氏時代
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「川崎城 (下野国)」の記事における「重興塩谷氏時代」の解説
重興塩谷氏とは、塩谷孝綱から義綱までの塩谷氏のことである。この時代、那須氏との対立が激化していたこともあって、川崎城が戦場となることが度々あった。 略年表年代出来事永禄2年(1559年)10月。結城晴朝、川崎城を包囲し5~6日攻め立てるも、落城せずに撤退。 永禄7年(1564年)10月7日夜。塩谷義孝の弟孝信が手勢16騎にて川崎城に侵入し義孝を殺害。川崎城を占拠する。 永禄9年(1566年)義孝の嫡子義綱が、宇都宮、佐竹、那須の援軍を得て川崎城を包囲。孝信は川崎城を脱出し落城する。 天正5年(1577年)3月15日。那須勢木幡原(川崎城南東)まで押し寄せ戦う。(那須塩谷合戦)8月3日。那須勢富田原(川崎城北東)まで押し寄せ戦う。(富田原合戦) 天正6年(1578年)5月13日。那須よりの忍びを1名生け捕る。9月7日。義綱、木幡神社(川崎城東)に参詣のところ那須の忍びが襲い掛かり2名を討ち取る。 天正13年(1585年)正月9日。那須資晴が川崎城に攻め寄せ城下を焼き払う。同月14日退却。3月25日。薄葉ヶ原の戦い 文禄4年(1595年)2月8日。義綱、豊臣秀吉より改易を言い渡され、川崎城は廃城となる。 このように川崎城は、度々戦場となっていたが、同族による内紛のときを除いて、外敵からの侵略により落城することは一度も無かった。永禄7年(1564年)10月7日の時は、城の門番であった木村和泉が孝信に内通していたため、あっさりと城への侵入を許して落城したが、永禄9年(1566年)に、義綱がこれを取り返すべく川崎城を包囲したが、那須、佐竹、宇都宮からの援軍があったにも関わらず、攻め落とすのに百日あまりを要した。この百日は、正確な数字ではなく、それだけ長い期間を要したことを示す比喩的表現だが、川崎城がいかに難攻の城であったかが分かる。 義綱の時の文禄4年(1595年)2月8日、秀吉に改易を言い渡され川崎城は廃城となる。
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