重興塩谷氏時代とは? わかりやすく解説

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重興塩谷氏時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/27 15:14 UTC 版)

川崎城 (下野国)」の記事における「重興塩谷氏時代」の解説

重興塩谷氏とは、塩谷孝綱から義綱までの塩谷氏のことである。この時代那須氏との対立激化していたこともあって、川崎城戦場となることが度々あった。 略年表年代出来事永禄2年1559年10月結城晴朝川崎城包囲し5~6日攻め立てるも、落城せずに撤退永禄7年1564年10月7日夜。塩谷義孝の弟孝信が手勢16騎にて川崎城侵入し義孝殺害川崎城占拠する永禄9年1566年義孝嫡子義綱が、宇都宮佐竹那須援軍得て川崎城包囲。孝信は川崎城脱出し落城する。 天正5年1577年3月15日那須木幡原(川崎城南東)まで押し寄せ戦う。(那須塩谷合戦8月3日那須富田原(川崎城北東)まで押し寄せ戦う。(富田合戦天正6年1578年5月13日那須よりの忍びを1名生け捕る9月7日。義綱、木幡神社川崎城東)に参詣のところ那須忍び襲い掛かり2名を討ち取る天正13年1585年正月9日那須資晴川崎城攻め寄せ城下焼き払う同月14日退却3月25日薄葉ヶ原の戦い 文禄4年1595年2月8日。義綱、豊臣秀吉より改易言い渡され川崎城廃城となる。 このように川崎城は、度々戦場となっていたが、同族による内紛のときを除いて外敵からの侵略により落城することは一度無かった永禄7年1564年10月7日の時は、城の門番であった木村和泉が孝信に内通していたため、あっさりと城への侵入許して落城したが、永禄9年1566年)に、義綱がこれを取り返すべく川崎城包囲したが、那須佐竹宇都宮からの援軍があったにも関わらず攻め落とすのに百日あまりを要した。この百日は、正確な数字ではなくそれだけ長い期間を要したことを示す比喩的表現だが、川崎城がいかに難攻の城であったかが分かる。 義綱の時の文禄4年1595年2月8日秀吉改易言い渡され川崎城廃城となる。

※この「重興塩谷氏時代」の解説は、「川崎城 (下野国)」の解説の一部です。
「重興塩谷氏時代」を含む「川崎城 (下野国)」の記事については、「川崎城 (下野国)」の概要を参照ください。

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