政党の後退と官僚の進出
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/03 08:40 UTC 版)
齋藤實内閣が帝人事件で総辞職すると、最後の元老である西園寺公望は後継首班の決定を首相経験者、枢密院議長、内大臣とで構成する重臣会議で決定し、奉答することにした。7月3日の齋藤の辞表提出後、重臣会議の推薦によって岡田啓介海軍大臣が組閣することになる。岡田内閣は当時の二大政党であった政友会と民政党に協力を求め、両党から5名の入閣があった。しかし、途中で政友会が入閣を拒絶し、入閣した逓信大臣の床次竹二郎、農林大臣の山崎達之輔、鉄道大臣の内田信也は政友会から除名されてしまった。斎藤内閣に比べて岡田内閣の政党出身の閣僚の地位は低く、政友会との関係も悪く、政党勢力は後退したといえる。 これに代わって勢力を伸張したのが官僚であった。特に斎藤内閣の農相として活躍し、新官僚の代表的存在とされていた後藤文夫が内務大臣になったことは、その象徴であった。岡田内閣は基盤強化のため、内閣審議会と内閣調査局を設置した。この内閣調査局の局長には、新官僚のリーダー格とされていた吉田茂(内務官僚)が任命され、調査官の中には陸軍大佐の鈴木貞一、逓信省出身の奥村喜和男、農林省出身の和田博雄など革新官僚の姿もあった。
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