政党の中での構造改革の展開
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/13 07:42 UTC 版)
「構造改革」の記事における「政党の中での構造改革の展開」の解説
日本共産党ならびに日本社会党の党内においての構造改革の思想は、ねじれた展開を見せた。 日本共産党内においては事情が異なっている。すなわち、日本共産党の主流派が「ソ連絶対」の立場に距離を置き、自主独立の綱領を確定して活動を進めようとする路線を取ったこともあり、むしろ構造改革派の方が「親ソ」であった。上述の共産党からの脱退と独自の党の旗揚げにも、ソ連の対日干渉工作に基づく育成が深く関わっていた(同派に対する資金提供の証拠などが、ソ連崩壊以後に見つかっている[要出典])。 日本社会党内においては、教条主義的なマルクス主義的理念に対置し、左派政党において議会主義を正当化する考え方として、十分な思想の定着が見られる前に、派閥として右派に伝播していった。 構造改革は、改良主義や修正主義とは異なるが、暴力革命という手段方法を取らず、長期的な社会の変革を目指すという点では社会民主主義に近いものがあった。そのため、社会党左派の有力な基盤である社会主義協会の向坂逸郎や総評の太田薫らは、資本主義体制を温存しているという意味の「改良主義」「日和見主義」であるとして強く非難した。これは、構造改革の社民主義化を警戒したものともいえた。この結果、1962年の党大会で、構造改革は「戦略路線としてただちに党の基本方針としてはならない」とする議案が可決され、構造改革派は後退した。また、江田が アメリカの平均した生活水準の高さ ソ連の徹底した生活保障 イギリスの議会制民主主義 日本国憲法の平和主義 の四要素を掲げた「江田ビジョン」を発表し、民主社会党の西尾末広がこれを1962年11月21日に支持表明したことも、左派の反発を増した(現に、佐々木更三は『新しい社会主義のために』31号で江田ビジョンを「民社党と変りがない」と批判した)。その結果、11月27日の党大会で江田非難決議が可決され、党書記長だった江田は辞職した。さらに1964年にはマルクス主義色の強い「日本における社会主義への道」が承認され、社会党では反構造改革派が勝利を収め、構造改革は江田派の一派閥の思想におしこめられた。 構造改革の是非の亀裂が、その後、1970年代後半までの社会党の派閥抗争の材料となり、両者の争いは社会党の体力を消耗させる1つの要因になった。江田は1977年、社会党内で台頭した社会主義協会派に追われる形で離党し、新たに結成された社会市民連合に継承された。一方、日本社会党は1986年に至り、社会党は新たに決定した綱領的文書新宣言において「日本における社会主義の道」を歴史的文書として棚上げし、構造改革との関係性を整理しないかたちで、社会民主主義に方向転換するに至った。
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