元老の退場
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/25 13:47 UTC 版)
1937年(昭和12年)6月に林内閣が崩壊した後、湯浅内大臣は天皇の下問を受け、元老の推薦も受けた上で近衛文麿を首相として推薦したいと奉答した。西園寺もこれに同意を与え、首相選定が事実上湯浅内大臣一人によって決まることとなった。以後、首相選定については内大臣が取り仕切り、1939年(昭和14年)以降は「自己の責任」で推薦を行うこととなった。西園寺は参考として意見を求められる存在となり、平沼内閣、阿部内閣、米内内閣成立の際には湯浅内大臣の相談を受けている。しかし1940年(昭和15年)7月、米内内閣が崩壊すると、木戸幸一内大臣は、元内閣総理大臣や枢密院議長による重臣会議を復活させ、元老は内大臣か秘書官長が「相談する」という形となった。重臣会議で近衛文麿が選ばれたと伝える内大臣秘書官長に対し、「この奉答だけは御免蒙りたい」と述べ、意見を述べることも辞退した。期待していた米内内閣の崩壊で意気消沈していた上に、西園寺は近衛に失望しており、奉答辞退はささやかな抵抗でもあった。 1940年(昭和15年)12月24日、西園寺の死と共に元老の制度も消滅した。
※この「元老の退場」の解説は、「元老」の解説の一部です。
「元老の退場」を含む「元老」の記事については、「元老」の概要を参照ください。
- 元老の退場のページへのリンク