元老一人制へ
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原が1921年(大正11年)11月に暗殺されると、山縣は病中であったために、松方と西園寺の主導により高橋是清が政友会内閣を引き継いだ。間もなく山縣と大隈が相次いで没し、松方も高齢であったため、西園寺が事実上の元老主導者となった。西園寺自身も「自分は全責任を負ひ宮中の御世話やら政治上の事は世話を焼く」と考えていた。しかし1922年6月に高橋内閣が総辞職すると、おりしも西園寺は病中であった。この際、宮内大臣牧野伸顕は、松方の他に山本権兵衛元首相と、清浦奎吾枢密院議長にも下問するように摂政宮裕仁親王に言上した。松方と清浦、そして山本は加藤友三郎海軍大将を奏薦し、大命が降下した。これは御下問範囲を拡大することで、山本と清浦を準元老とも呼べる存在にするものであった。元老や元老に次ぐ存在を増やすことに、元老以外が関与するべきではないと考えていた西園寺は牧野の策動に不満であり、9月に内大臣に就任した平田東助も西園寺と同様に考えていた。 翌1923年(大正13年)に加藤友三郎首相の病状が悪化した際には、西園寺は元老以外に下問しないように牧野と打ち合わせを行い、病中であった松方もこれに同意した。加藤友三郎首相が8月24日に没すると、摂政宮は平田内大臣に善後策を聞き、元老に下問するようにという内大臣の意見を受けて、二元老に下問を行った。この方式は平田の提案によって行われるようになったもので、首相推薦課程において、内大臣が形式的に関与する先例となった。第2次山本内閣は虎ノ門事件の責任をとって12月に総辞職し、西園寺と松方は選挙管理内閣として清浦奎吾を奏薦した。清浦内閣が第二次護憲運動によって第15回衆議院議員総選挙で惨敗すると、西園寺は護憲三派の筆頭である憲政会総理である加藤高明を奏薦した。当時松方は意識もおぼつかない病中であったため、西園寺は平田内大臣にも下問するよう奏上し、平田も加藤を推したために加藤に大命が降下した。1924年7月4日に松方は没したため、以降は西園寺が最後の元老として活動することになった。この後、15年にわたって単独の元老であったため、「元老」は西園寺を指す代名詞となった。 松方の存命中から元老の補充に関してはたびたび問題となっており、牧野が行った「御下問範囲拡大」もその一つである。しかし西園寺は新たな元老を加えようとはしなかった。これは吉野作造によって、西園寺が元老制度を廃止するために意図的に元老を加えないでいるのだと指摘され、伊藤隆、馬場恒吾、升味準之輔、永井和といった研究者たちもそう見ている。一方で伊藤之雄は元老を加えようとしなかったのは、価値観を共有できる存在がいなかったためであるとしている。原は一時西園寺と行き違いはあったが、西園寺が元老となって以降は良好な関係であり、平田内大臣も「元老は西園寺公を限りとし、将来は置かぬが宜し。原が居れば別だが、種切れなり」と評したように、生存していれば元老となっていたと見られている。また伊藤之雄は加藤高明についても組閣以降西園寺が高い評価を与えており、元老の有力候補であったとしている。一方で有力候補としてあげられた山本権兵衛については薩摩閥色が強すぎるとして、西園寺も平田も否定的であった。
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