元老一人制へとは? わかりやすく解説

元老一人制へ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/25 13:47 UTC 版)

元老」の記事における「元老一人制へ」の解説

原が1921年大正11年11月暗殺されると、山縣病中であったために、松方西園寺主導により高橋是清政友会内閣引き継いだ間もなく山縣大隈相次いで没し松方高齢であったため、西園寺事実上元老主導者となった西園寺自身も「自分は全責任負ひ宮中御世話やら政治上の事は世話を焼く」と考えていた。しかし1922年6月高橋内閣総辞職すると、おりしも西園寺病中であったこの際宮内大臣牧野伸顕は、松方の他に山本権兵衛元首相と、清浦奎吾枢密院議長にも下問するように摂政宮裕仁親王言上した。松方清浦、そして山本加藤友三郎海軍大将奏薦し、大命降下した。これは御下問範囲拡大することで、山本清浦を準元老とも呼べ存在にするものであった元老元老に次ぐ存在増やすことに、元老以外が関与するべきではないと考えていた西園寺牧野策動に不満であり、9月内大臣就任した平田東助西園寺同様に考えていた。 翌1923年大正13年)に加藤友三郎首相病状悪化した際には、西園寺元老以外に下問ないよう牧野打ち合わせ行い病中であった松方もこれに同意した加藤友三郎首相8月24日没すると、摂政宮平田内大臣善後策聞き元老下問するようにという内大臣意見受けて二元老に下問行ったこの方式は平田提案によって行われるようになったもので、首相推薦課程において、内大臣形式的に関与する先例となった第2次山本内閣虎ノ門事件責任をとって12月総辞職し西園寺松方選挙管理内閣として清浦奎吾奏薦した。清浦内閣第二次護憲運動によって第15回衆議院議員総選挙惨敗すると、西園寺護憲三派筆頭である憲政会総理である加藤高明奏薦した。当時松方意識おぼつかない病中であったため、西園寺平田内大臣にも下問するよう奏上し平田加藤推したために加藤大命降下した1924年7月4日松方没したため、以降西園寺最後元老として活動することになったこの後15年わたって単独元老であったため、「元老」は西園寺を指す代名詞となった松方存命中から元老補充に関してはたびたび問題となっており、牧野が行った「御下問範囲拡大」もその一つである。しかし西園寺新たな元老加えようとはしなかった。これは吉野作造によって、西園寺元老制度廃止するために意図的に元老加えないでいるのだと指摘され伊藤隆馬場恒吾升味準之輔永井和といった研究者たちもそう見ている。一方で伊藤之雄元老加えようとしなかったのは、価値観共有できる存在がいなかったためであるとしている。原は一時西園寺行き違いはあったが、西園寺元老となって以降良好な関係であり、平田内大臣も「元老西園寺公を限りとし、将来置かぬ宜し。原が居れば別だが、種切れなり」と評したように、生存していれば元老となっていたと見られている。また伊藤之雄加藤高明についても組閣以降西園寺高い評価与えており、元老の有力候補であったとしている。一方で有力候補としてあげられ山本権兵衛については薩摩閥色が強すぎるとして、西園寺平田否定的であった

※この「元老一人制へ」の解説は、「元老」の解説の一部です。
「元老一人制へ」を含む「元老」の記事については、「元老」の概要を参照ください。

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