元老制度の形成
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内閣制度が発足し、第1次伊藤内閣が成立したが、大臣のうち6人が後の元老となっている。伊藤内閣の後の黒田清隆内閣、第1次山縣内閣はそれぞれ前首相の推薦によって成立した。 1889年(明治22年)11月21日、伊藤博文と黒田清隆に対し「大臣の礼によって元勲優遇の意を表す」という詔勅が下された。これは通常「元勲優遇の詔勅」と呼ばれ、大正期からは元老の法的根拠とされていたが、伊藤之雄はこの詔勅により二人が元老となったわけではないと指摘している。伊藤、山縣はのちに同趣旨の詔勅を4回受け、松方は3回受けているが、この詔勅を受けていない段階でも井上馨と松方正義は後継首相の諮問を受けている。この詔勅により伊藤やより若い世代の松方などを「元勲」と呼ぶ動きが広まった。 1891年(明治24年)当初の責任を果たした山縣内閣の山縣は辞任を決意、後継に伊藤を推薦したが伊藤は固辞。伊藤は松方正義と西郷従道を推薦した。 1891年(明治24年)5月 第1次松方内閣が成立。1892年 第1次松方内閣が行き詰まりをみせると、6月29日、元老会議が開かれ伊藤・黒田・山縣・松方が出席、井上馨は山口県に帰郷していたため参加できなかった。この会議では第2次伊藤内閣の成立が事実上決まり、「元勲会議」によって後継首相が決まる先例となった。土方久元元宮内大臣が伊藤に対して「政府内にいなくても元勲の身で天皇の諮問を受け、奉答することはけっして不当ではない」という書簡を出しているように、こうした元勲たちが国政への助言や指導を行うべきであるという認識が強まった。7月30日に松方が辞表を提出すると、明治天皇は伊藤、山縣、黒田に善後処置を諮り、そして2日後には井上馨に対して後継首相の意向を尋ねた。伊藤の伊皿子邸において、伊藤・山縣・黒田・井上、そして山田顕義と大山巌を加えた会議が行われ、伊藤を後継首相とすることが確認された。 1895年(明治28年)に伊藤が辞職の意向をもち、後継首相に松方を推薦したが、明治天皇は辞表を却下している。1896年(明治29年)に再び伊藤が辞表を提出すると、伊藤が後継を指定しなかったこともあり、天皇は山縣・黒田・井上、そして松方に諮問する意向を持っていた。参内した黒田と松方に対し、天皇は山縣を首相としてはどうかと諮った。しかし山縣が病気を理由に辞退したため、第2次松方内閣が成立した。このころ清浦奎吾や白根専一は天皇が「元老を召す」という書簡を出しており、東京日日新聞でも9月1日に「黒田伯をはじめ元老諸公」が相談をすると報じており、9月3日には「所謂元老会議」という記事を掲載し、大阪朝日新聞も4人の「元老」と記述している。東京日日新聞は「元老なる文字から解釈」すれば、川村純義、副島種臣、佐佐木高行、海江田信義、福岡孝弟も元老ではあるが、今回の会議は「一種の元老を限れるもの」としている。1892年から1895年ごろまでは「元勲」「元勲会議」の語が主に使われていたが、1896年8月末以降は「元老」「元老会議」の語が使用されるようになっていき、制度として公然化していくこととなる。ただ天皇は内閣の存続等に関する問題を全て元老に下問したわけではない。 1897年(明治30年)に松方内閣が崩壊すると、明治天皇は黒田清隆一人に後継首相を下問した。黒田は伊藤か山縣が適当であると奉答し、天皇は伊藤に組閣を命じた。渋る伊藤を黒田と山縣が説得して出馬させた。第3次伊藤内閣の成立前、伊藤は「元老」を召して内外の情勢に対応する会議開催を奏請した。この会議の出席予定者は伊藤・山縣・黒田・井上・松方に加え、大山巌・西郷従道も加わったものであった。1月10日に行われた会議には辞職直後である松方は出席しなかったものの、内大臣徳大寺実則が「元老が参朝」という表現を使っている。これ以降、天皇をはじめとする宮中も元老たちに下問することを事実上の制度として認識するようになった。 伊藤は枢密院を強化し、構成員でもある元老がその中で首相の奏薦を行うことを考えており、1896年にもその旨を手記に記している。しかし枢密院内部の対立が激化していたため、当面は藩閥実力者の間で決めていくしかないと判断している。 元老内では特に伊藤と山縣が強い影響力を持っていた。しかし伊藤は立憲政友会の結成により元老内、官僚内での勢力を低下させ、山縣は枢密院、陸軍、官僚を通じて伊藤に並ぶ強大な影響力を持った。井上は伊藤の補佐的な役割をしていたが、剛毅な性格の彼には首相となれないことの屈折もあった。松方は財政の専門家として名をあげ、財界のみならず開拓使官有物払下げ事件以来影響力を低下させていった黒田の後継となる薩摩閥の代表として扱われるようになった。しかし松方は性格が弱く、伊藤に協力的であったために薩摩閥の失望を買った。西郷は海軍、大山は陸軍を代表する存在であったが、大山は陸軍内の意向に従う傾向があり、黒田・西郷没後は会議内のバランスをとるためしばらく元老会議のメンバーから外されている。
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