元老院からの追放とその後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/21 17:10 UTC 版)
「ルキウス・クィンクティウス・フラミニヌス」の記事における「元老院からの追放とその後」の解説
次にフラミニヌスが登場するのは紀元前184年のことである。この年のケンソルは大カトとルキウス・ウァレリウス・フラックスであったが、彼ら二人は紀元前189年にも立候補しており、このときはティトス・クィンクティウス・フラミニヌスとマルクス・クラウディウス・マルケッルスのコンビに敗れていた。今回はカトとフラックスはクィンクティウス一派を攻撃しはじめた。フラックスは自身を元老院筆頭に任じた。これに対してティトス・クィンクティウス・フラミニヌスは自分が最高齢の元ケンソルであるとしてその地位を主張したが、フラックスは無視した。そして元老院名簿から7名を除名したのである。フラミニヌスはその一人であった。 この追放の理由に関して、古代の歴史家の記述は一致していない。リウィウスは、大カトの演説を引用して次のように述べている。フラミニヌスにはフィリポスというカルタゴ人の男を大金を支払って愛人としていたが、執政官としてガリアに赴く際に彼も連れて行こうとした。フィリポスはそれでは剣闘士の試合が見られないと文句を言っていたが、ある日フラミニヌスはボイイ族が交渉のために派遣した使節の一人をフィリポスの眼前で自ら殺害してみせた。ウァレリウス・アンティアスの説はもう少し柔らかい。フィリポスの代わりにフラミニムスが「気を失うほど恋をしていた」という、ある種の「放蕩女性」が登場する。プラケンティアの祭りの際に、彼女は人が斬首されるところを見たことがないので、ぜひ見たいといった。そこでフラミニヌスは死刑囚の一人を連れてくるように命じ、自ら斧を使って斬首した。キケロ とウァレリウス・マクシムス もアンティアヌスの説を繰り返している。プルタルコスは、大カトの演説は誇張であるとして、三番目の説をあげている。ある夕食のときにフラミニムスの愛人の少年が、「自分は剣闘士の試合が見られないし人が殺されるのも見たことがない」と言ったところ、フラミニヌスは直ちに死刑囚を連れてこさせ、リクトル(護衛官)に首をはねさせた。 この大カトの演説の全文はリウィウスの時代までは残っており、リウィウスは「非常に鋭い」と称している。残念ながら現在まで残っているのは一節だけである「フィリポスよ、愛と欲望は同じものとは程遠い。一つは善であり、もう一つは悪である」。 カトーは演説の最後に、「もしフラミニヌスが告訴を否定したならば、安全を保証してて裁判にかけるという選択肢を与えた。しかし彼が告訴を認めたとしても、ワインと欲望に狂って宴席で人の血を流し自分を楽しませせるような人物に対し、誰がその恥辱を悲しむと思ったのだろうか?」と述べた。 リウィウス『ローマ建国史』XXXV, 10, 4-6 プルタルコスはフラミニヌス兄弟が何故除名されなければならなかったのかと民衆に上訴(プロウォカティオ)したものの、大カトはこのアピールを受け、フラミニヌスに面と向かって不祥事が本当かどうか問いただし、フラミニヌスは答えることが出来なかったとしているが、ケンソルの譴責は再審査されることはないために、この記述に対して歴史家達は疑問を呈している。ただ、大カトのこの行動に対して大衆が一致して支持したわけではない。プルタルコスによると、元老院議員は最前列で見る名誉を与えられていたが、フラミニヌスがある見世物を貧しい人々に交じって後ろの方で観劇していたため、これに気づいた観客は憐れに思い、彼に前に出るように叫び続けた。ついには前の方で観劇していた執政官クラスの人々が席を譲ったという。 その後フラミニヌスに関する記録はなく、紀元前170年に死去した。弟のティトゥスは紀元前174年頃に没しているので、数年間は長生きしたことになる
※この「元老院からの追放とその後」の解説は、「ルキウス・クィンクティウス・フラミニヌス」の解説の一部です。
「元老院からの追放とその後」を含む「ルキウス・クィンクティウス・フラミニヌス」の記事については、「ルキウス・クィンクティウス・フラミニヌス」の概要を参照ください。
- 元老院からの追放とその後のページへのリンク