古代の歴史家の記述とは? わかりやすく解説

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古代の歴史家の記述

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/12 15:38 UTC 版)

ローマ・エトルリア戦争」の記事における「古代の歴史家の記述」の解説

紀元前390年ガリア人連合軍ローマ侵攻しアッリアの戦いローマ軍勝利しローマ略奪した古代の歴史家は紀元前389年エトルリアウォルスキ族アエクイ族がこれに付け込んで全て兵を挙げたとする。リウィウスによると、エトルリア全ての指導者達ウォルトゥムナ聖域集まりローマ対す敵意固めた全方向からの危険にさらされローママルクス・フリウス・カミルス独裁官選出した。カミルスはまずウォルスキ族に向かうこととしリウィウスによると執政武官のアメリウス・マメルキヌスをエトルリアへの備えとしてウェイイ領に残した。この両面作戦で、まずカミルスはウォルスキ族アエクイ族勝利しエトルリア対す攻撃準備ができた。 リウィウスプルタルコス、さらに要約ではあるがシケリアのディオドロスローマエトルリア戦いに関する記述類似している。カミルスがウォルスキ族との戦い外征しているとき、エトルリアローマ同盟都市であるストリウムを包囲していた。ストリウムはローマ救援依頼しウォルスキ族アエクイ族勝利したカミルスは、ストリウム解放向かったが、到着前にストリウムは武器全て残し、服一枚で街を去るという条件降伏していた。しかし、追放されたストリウム人は同日にカミルスと出会った。カミルスは大きな荷物その場残し身軽になった兵士をストリウムに急がせた。ストリウムではエトルリア兵は分散し略奪忙しくしていた。カミルスは全ての城門閉じさせ、エトルリア兵が集結する前に攻撃開始した当初エトルリア兵は最後まで戦うつもりであったが、ローマ軍捕虜の命はとらないということ聞いて、その多く降伏した。すなわち、ストリウムは同日二度占領されたことになる。リウィウス戦利品の数も記録している。三つ戦闘勝利し、カミルスはローマ帰還し凱旋式実施したエトルリア人兵士奴隷として売られた。その代金は、まずローマ既婚婦人達がガリアへの身代金として提供した私財補償用に使われたが、残りでカミルスの名を刻んだ3個の杯が作られユピテル・オプティムス・マキシムス、ユーノー、ミネルウァ神殿ユーノー像の前に置かれた。 翌紀元前388年出来事リウィウス記述しているだけである。ローマ軍タルクイニア領土侵略し、コルトゥオサとコンテネブラの二つ都市占領した前者奇襲行って一度攻撃占領し後者守備兵数日間抵抗したものの、数に勝るローマ軍降伏した紀元前387年ローマで再びエトルリア武備整えているとの噂が立った翌年執政武官6人の内の1人選ばれていたカミルスが、再び対エトルリア戦を担当することとなったしかしながらウォルスキ族がポンプティン領へ侵攻したとの報告がカミルスの元に届いた。カミルスがこれに忙殺されている間、エトルリアはネペテとストリウムの国境拠点攻撃した。しかし、カミルスはウォルスキ族直ち撃破しローマで新たな軍が編成された。カミルスと同僚のウァレリウス・ポティトゥス・ポプリコラがこの軍の指揮をとってエトルリアと戦うこととなった。カミルスとウァレリウスがストリウムに到着するまでに、エトルリアは街の半分占領し、ストリウム軍は道路バリケード作り死に物狂いで街の残り防衛していた。カミルスは軍を二つ分けウァレリウス一隊率いさせてエトルリア占領する側の城壁攻撃するように命じた。街の内外からの攻撃を受け、エトルリア軍はパニック起こして多数戦死した。ストリウムを奪還すると、ローマ軍はネペテに向かった。この時点で、ネペテは一部市民の裏切りによりエトルリア降伏していた。カミルスはネペテに働きかけエトルリア軍を追放させようとした。しかしそれが拒否される強襲しエトルリア全員とこれを支援したネペテ市民殺害しローマ守備兵駐屯させた。この戦いの後紀元前358年のタルクィニイとの戦いまでローマエトルリア間の戦い記録されていない

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古代の歴史家の記述

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ローマ・エトルリア戦争」の記事における「古代の歴史家の記述」の解説

リウィウスによると、タルクィニイがローマ領に襲撃をかけてきたため、紀元前358年宣戦布告した執政官ガイウス・ファビウス・アンブストゥスがこの戦争指揮することとなった。しかし、タルクィニイはローマ軍勝利し捕虜307名を殺害した。翌紀元前357年ローマはファレリイ(英語版に対して宣戦布告した。ファレリイはタルクィニイと戦っていたが、ローマ敗北後脱走兵がファレリイ領に逃げ込むと、これを受け入れず降伏求めたためである。この作戦グナエウス・マンリウス・カピトリヌス・インペリオスス担当したしかしながら、彼はストリウム近くで軍を野営させた以外は何もせず、そこで民会開催して奴隷管理に関する課税法律採択した。これが先例となることを憂慮し護民官は、通常以外の場所で民会を開くことは死刑値する罪とした。シケリアのディオドロスローマとファレリイの戦争触れているが、襲撃略奪以外には特筆すべき事項は無い。 紀元前356年執政官マルクス・ファビウス・アンブストゥスがファレリイとタルクィニイとの戦争担当したエトルリア軍はと炎をあやつる司祭同行させ、これを見たローマ兵は当初パニック起こして自軍陣地引き返したファビウスはこれを恥とし、戦い再開させた。エトルリア軍は蹴散らされ、その野営地占領された。この敗北きっかけに、タルクィニイとファレリイを指導者として全エトルリア蜂起しローマ製塩所向かった。この危機直面してローマガイウス・マルキウス・ルティルス独裁官選出したが、彼はプレブス出身最初独裁官であった。マルキウスは筏で軍をティベリス川渡河させた。まず、多くエトルリア襲撃部隊捕らえると、エトルリア野営地奇襲捕虜8,000得た残りエトルリア兵は戦死するかあるいローマ領土から逃げ出した元老院認めなかったものの、ローマ市民はマルキウスの凱旋式望み凱旋式記録には同年5月6日凱旋式挙行されたことが記録されている。シケリアのディオドロスは、エトルリア軍がローマ領に侵入しティベリス川までを略奪して撤退した述べている。 リウィウス参照した何人かの歴史家によると、紀元前355年執政官ガイウス・スルピキウス・ペティクスがタルクィニイ領の略奪行っている。しかし他の資料では、同僚執政官マルクス・ウァレリウス・ポプリコラ)と共同してティブルを攻撃したとする。紀元前354年、タルクィニイ軍は戦闘大損害を受けてローマ降伏したローマ送られ358名の貴族除き捕虜全員殺害された。これら貴族3年前報復として、フォルム・ロマヌム鞭打たれ、斬首された。ディオドロスは、処刑されたのは260名であるとする。 この戦争最後の年である紀元前353年についてはリウィウスだけが記述している。この年、カエレ(英語版)が同じエトルリア人であるタルクィニイに同情して味方したとの噂が届いた。この噂は、タルクィニイの略奪行っていた執政官ガイウス・スルピキウス・ペティクスが、ローマ製塩所襲撃されたと報告したことで確認された。略奪品一部がカエレへ送られたが、襲撃にカエレが加わっていたのは明らかであったローマティトゥス・マンリウス・インペリオスス・トルクァトゥス独裁官任命し、カエレへ宣戦布告した。カエレはその行為後悔しローマへ講和を願う使節送った過去友好関係にあったことから、ローマはカエレと100年休戦合意したローマはその矛先をファレリイに向けたが、ファレリイ軍は出撃せず、ローマは軍は略奪行った後に、都市攻撃行わず引き上げた紀元前352年12エトルリア都市同盟したという噂(結局は根拠の無いものであったが)が流れローマはガイウス・ユリウス・ユッルス(英語版)を独裁官選んだが、通常とは異なり彼は出征中でローマにはいなかった。戦争最後の年となった紀元前351年執政官ティトゥス・クィンクティウス・ポエヌス・カピトリヌス・クリスピヌスがファレリイに対す作戦担当し同僚ガイウス・スルピキウス・ペティクスがタルクィニイに対した戦闘無かったが、ファレリイもタルクィニイも、長年自領が略奪されていることに疲弊しており、休戦求めたローマは両都市40年間の休戦条約結んだ

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