古代の沿革
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/08 23:10 UTC 版)
古代出雲は、青銅器を主とする西部出雲(現在の島根県出雲市付近)と鉄器を主とする東部出雲(現在の島根県安来市、鳥取県米子市、大山町)との二大勢力から出発し、以後統一王朝が作られ、日本海を中心とした宗教国家を形成したと考えられている。特に東部出雲は律令下のいう伯耆国まで連続的な文化的つながりがあったため、特に弥生期では出雲と伯耆(鳥取県西部)を出雲文化圏とする向きもある。考古学的見地からは、古墳が発達する以前の特徴的埋葬様式四隅突出墳丘墓の分布状況からすると、北陸地方なども上古出雲とすべきとの説もある。これらの環日本海への版図拡大の逸話は国引き神話として『出雲国風土記』に記されているとの見方も有力である。 日本神話によれば、神逐された須佐之男命が(日本書紀では息子五十猛神とともに)出雲に降りたって八俣遠呂智を退治し、櫛名田比売命との間に八島士奴美神を生んだ。その5世孫にあたる大国主神が少名毘古那神や大物主神と共に出雲国を開拓した。『出雲国風土記』に須佐社として掲載されている須佐神社が建立され、大国主神を祭神とする出雲大社も建立された。 この律令以前の出雲国の影響力は日本神話の各所に見られ、日本創生の神話の大半が出雲やその周辺の話になることから、その精神的影響力は絶大であったとの見解が主流である。しかし、やがてはヤマト王権に下ることとなり、それが有名な国譲り神話として『日本書紀』などに記されたと考えられる。国譲りの交換条件として建立された出雲大社は、いまだに全国から参拝が絶えない。更には、出雲大社の祭祀を執り行う出雲国造(北島氏、千家氏)は、天照大神の第二子天穂日命の裔孫として、皇室と同等の血統の長さを誇り、この「国造」と言う呼び名も古代律令に用いられていた官職名であることからその歴史の長さを読み取ることが出来る。 崇神天皇60年7月には、天皇が「武日照命(日本書紀)(建比良鳥命(古事記))(天穂日命の子)が天から持って来た神宝が出雲大社に納められているから、それを見たい」と言って献上を命じ、武諸隅(タケモロスミ)を遣わしたところ、飯入根(いいいりね)が、当時の当主で兄の出雲振根に無断で出雲の神宝を献上。出雲振根は飯入根を謀殺するが、朝廷に誅殺されている。『日本書紀』 その後律令制の下では出雲国造の領域を元に、7世紀に設置された。 7世紀末の藤原宮跡や出雲国庁跡出土の木簡から、出雲国では、出雲評・楯縫評・大原評などの存在が知られ、『日本書紀』斉明5年(659年)には「於友郡」がみえるが、編者の潤色で、意宇郡の前身として意宇評がこの時期にはすでに置かれていたことが分かる。 平安期には東部出雲(意宇郡)を朝廷に没収された出雲国造家は今の出雲大社がある西部出雲に中心を確定する。
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