古代の無礼講
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/03 10:15 UTC 版)
日本の神事としての祭りは、神と人が共に同じものを食する神人共食が基本の形であり、神に奉納した神酒を参列者も授かる直会が礼講であり、その後二次会的に行われる宴席のことを無礼講とすることが、本来の意とも言われる。 歴史的な経緯としては、古代日本の貴族主体の宴会では、座席や酌の順番、杯の回数や手順など儀礼が重んじられていたが、武家が力を持った中世以降、儀礼を取り払った一般的な宴会形式として、無礼講が広がったといわれる。 記録に残る日本の宴会では、無礼講は無い方が珍しい。平安時代から室町時代にかけて成立した正式な宴会形式である本膳料理は「式三献」という9杯の盃を干すところから始まるが、小杯3杯、中杯3杯、大杯3杯と規定だけでも相当な量を飲む。本膳が終わったあとは酒宴となるが、人に酒を勧める際の作法が記録に残っているだけでも10種類以上あった。酒合戦のように飲み比べになることが多く、誰かが倒れるまで飲むのが原則だった。しらふでは非礼だが、酔って殿上で吐く場合は「苦しからず」とされた。イエズス会司祭で『日本教会史』を著したジョアン・ロドリゲスは日本の宴会は酒で腹いっぱいにし、泥酔させることを目的にしていると分析している。また、熊倉功夫は乱酒の中にもいろいろルールがあり、見かけは無礼でも一定の秩序の中の乱酒だったのではないかと述べている。
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