元老に次ぐ存在
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/11 08:28 UTC 版)
大正元年(1912年)12月には、第2次西園寺内閣の総辞職を受け、元老会議で後継首相に推されるが、辞退。以後は閣僚などの表舞台には立たず、貴族院および宮中における山縣閥重鎮として、元老に次ぐ影響力を保ち続ける。 立憲政友会を与党とした第1次山本内閣がシーメンス事件のスキャンダルに見舞われた際には、茶話会は清浦奎吾率いる会派・研究会とともに、海軍予算7,000万円減を成立させ、3,000万円減の衆議院と対立。両院協議会でも決着せず、予算不成立となり、山本内閣を総辞職に追い込んだ。ただし直後に、清浦が組閣の大命を受けた際に、海軍側は海軍大臣を出さなかったため流産させられる形で報復された(鰻香内閣)。更に研究会側がこの流産を平田の清浦への嫉妬と茶話会の策動のためではないかと疑って両会派の不和の原因となったが、平田にとっては全く身に覚えのないことであった。 寺内内閣においても内相就任を要請されるが、固辞。同内閣下では臨時外交調査会委員、臨時教育会議総裁となる。大正11年(1922年)には内大臣に就任するとともに伯爵に陞爵する。その後、清浦内閣の成立に力を尽くした。大正14年(1925年)3月、病気により辞任。同年4月に逗子の別荘に於いて薨去。享年77。墓所は小石川区(現・文京区)音羽護国寺。 生前の大正10年(1921年)、九段坂牛ヶ淵に建てられた平田東助像は、彫刻家・新海竹太郎が制作し、甥(兄・祐順の子)で建築家の伊東忠太が台座を設計したものである。昭和館建設のため、東京町田市相原町の中央協同組合学園内に移設された。
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