後継首相をめぐる暗闘
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 06:59 UTC 版)
大正5年(1916年)1月12日、大隈が乗車していた馬車に福田和五郎らの一味8人が爆弾を投げる事件が発生しているが、不発だったために事なきを得ている。この頃井上馨が没し、山縣有朋は元老の強化を図るため、大隈を元老に加えることを考慮し始める。大隈も高齢であり、いつまでも首相を続けるつもりはなかったが、後継に加藤高明を就けようとしたため、山縣との交渉が続くこととなる。6月24日、大隈は大正天皇に辞意を示し、後継に加藤と寺内正毅大将を推薦し、隈板内閣のような両者共同の内閣を作ろうとした。しかしこれは寺内に拒否され、山縣も西園寺公望や政友会とともに単独の寺内内閣を作るために運動を開始する。7月14日に侯爵に陞爵し、貴族院侯爵議員となる。 9月26日、大隈は辞意を内奏し、後継者として加藤を指名した。大隈は大山巌内大臣に、元老会議を開かずに加藤に組閣の大命が下るよう要請したが、大山はこれを拒否し、大山から話を聞いた山縣も激怒した。山縣は「大隈には一年半も欺かれた」と吐き捨てている。10月4日、大隈は辞表を提出したが、辞表の中でも加藤を後継者として指名する異様な形式であった。しかし山縣の運動により、大正天皇は元老への諮問を行い、山縣・松方・大山の三元老と西園寺は寺内を一致して推薦し、寺内内閣が成立した。 退任時の年齢は満78歳6か月で、これは歴代総理大臣中最高齢の記録である。
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