政友会長老
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大臣退任後は立憲政友会総務に復帰、ひたすら党務に専念した。岡崎邦輔とともに長老として党内調整役を進んで買って出た。 1929年(昭和4年)田中義一総裁が死去した後、次の総裁をめぐって党内で鈴木喜三郎派・床次竹二郎派・久原房之助派・旧政友会派に分かれた。望月は党内分裂を避けるため彼らより政治家として格上であり当時引退していた犬養毅を推した。望月は総裁選定の長老会議に出席すると、鈴木や岡崎など一人づつ廊下に呼び出し「犬養を推薦しようと思うがどうだ」と言うと、彼らは犬養の名を出されたため何も言えなくなり賛成に回った。そして望月は長老会議に戻り犬養推薦を提案すると、全員一致で賛成の意を表した。軽井沢で隠居していた犬養には森恪が向かい受諾を取り付けたことにより、犬養の政友会総裁がきまった。そして憲政の常道によって政友会が政権を握る事になり1931年(昭和6年)犬養内閣が発足した。 1932年(昭和7年)犬養が海軍の青年将校により殺害された(五・一五事件)後、次の総裁には鈴木派と床次派が争い鈴木にきまった。望月は岡崎・三土忠造らとともに順番的には床次が妥当と考えていたが、鈴木派の鳩山一郎や森の工作により党内は鈴木が多数となったことから、無用な争いを避けるため望月と岡崎が床次を説得し辞退させている。望月は党内では鈴木の先輩にあたるが愛党精神から鈴木を立てようとした。三土によると、望月としては間接的ではあるが鈴木の総裁就任を後押ししたこともあり党の長老として鈴木に色々相談して欲しかったが、鈴木は総裁には鳩山と森のおかげでなったと考え望月を味方と思っておらず相手にしなかった。このすれ違いがのちに対立に発展していった。 同年の選挙で絶対安定多数を獲得していた政友会としては犬養内閣の次は鈴木内閣となるべきであったが、情勢、特に陸軍が政党単独内閣を許さす強硬で、結局政党・官僚から広く閣僚を採用する挙国一致内閣に決まり齋藤内閣が成立した(五・一五事件#後継首相の選定)。それに対し鈴木総裁以下政友会幹部会は、第64回帝国議会終了後に危機的な状況は終わったとして政党単独内閣を目指し斎藤内閣と対峙する姿勢を示した。この単独内閣を目指す強情派と今は挙国一致するべきとする自重派で党内は分裂し、望月や山本条太郎の仲介で一旦収まったものの、そこから鈴木派と久原派の対立となってしまった。望月や岡崎などが何度も仲介したが対立は深まるばかりであった。 1933年(昭和8年)第65回帝国議会を前に、中島久万吉商相と鈴木派の中心人物である鳩山文相の尽力で政民が連携することになり、これに床次派・久原派・旧政友会派が支持した。望月もこれで党が一致団結すると支持した。ただ3派がその大同団結運動に加わろうとすると、鈴木派は急にこの運動に反対した。報復として同議会で久原派の岡本一巳が鳩山文相の収賄を暴露し、党内の派閥争いがとうとう議会にまで波及した。岡本のほか久原派の津雲国利と西方利馬が加勢したとして、岡本は党査問会で除名処分に決定、津雲と西方の処分は望月以下総務会に一任された。望月は同情し穏便に済ませようと鈴木総裁を説得したが失敗に終わり、2人とも除名処分となった。 不毛な派閥争いの中で鈴木総裁に不満を持った望月は、名目上は会期に3人も除名者をだした責任をとるという形で衆議院に議員辞表を提出した。この行動は鈴木派を非難し久原派を擁護する行動に写ったことから、久原派は活気だち、党幹部会は次第に困惑した。幹部会は望月に辞表を撤回するよう説得、鈴木総裁も望月に直に会い説得している。頑なに意思を曲げようとしない望月に鈴木総裁が折れ、大同団結、何より党が団結するよう働きかけたことから、望月は辞表を撤回した。
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