五・一五事件と二・二六事件とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 五・一五事件と二・二六事件の意味・解説 

五・一五事件と二・二六事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 14:49 UTC 版)

第二次世界大戦」の記事における「五・一五事件と二・二六事件」の解説

1932年5月15日には、海軍軍人らに首相犬養毅らが殺害されるという「五・一五事件」が起きていた。さらには内大臣官邸立憲政友会本部攻撃し、これによって東京混乱させて戒厳令施行せざるを得ない状況に陥れ、その間軍閥内閣樹立して国家改造を行う計画であったが、未遂のままで鎮圧された。 後継首相の選定難航した従来内閣倒れると、天皇から元老西園寺公望に対して後継者推薦下命があり、西園寺がこれに奉答して後継者が決まるという流れであったが、結局西園寺政党内閣断念し、軍を抑えるために元海軍大将穏健な人格であった斎藤実次期首相として奏薦した。 西園寺はこれは一時便法であり、事態収まれば憲政の常道(=民主主義)」に戻すことを考えていたが、ともかくもここに8年続いた憲政の常道」の終了によって、まともな政党政治大戦後まで復活することはなかった。 さらに1936年2月26日から2月29日にかけて、皇道派影響受けた陸軍青年将校らはクーデター図り、1,483名の下士官兵率いて首相官邸大蔵大臣高橋是清私邸内大臣斎藤実私邸教育総監渡辺錠太郎私邸などを襲ったが、このクーデター未遂に終わる(「二・二六事件」)。首相岡田啓介辛くも大丈夫だったが、大蔵大臣高橋内大臣斎藤教育総監陸軍大将渡部などはこの事件殺害された。 この事件の結果広田弘毅首相に就いたが、組閣にあたって陸軍から閣僚人事に関して不平出た。「好ましからざる人物」として指名されたのは吉田茂外相)、川崎卓吉内相)、小原直法相)、下村海南中島知久平である。吉田英米友好関係結ぼうとしていた自由主義者であるとされ、結局吉田辞退し広田外務大臣兼務した。さらに陸軍内部では二・二六事件後粛軍人事として皇道派排除し陸軍内部主導権固めた1931年には「三月事件」、1934年には「陸軍士官学校事件」が起こり当時日本ではこのように選挙選ばれたわけでもない単なる軍人役人)が、国が自分気に入らない方向に向かうと、武力クーデター起こして自らの向かう方向仕向け、さらに陸海軍組閣口を出すことが度々起きまかり通るようになった

※この「五・一五事件と二・二六事件」の解説は、「第二次世界大戦」の解説の一部です。
「五・一五事件と二・二六事件」を含む「第二次世界大戦」の記事については、「第二次世界大戦」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「五・一五事件と二・二六事件」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「五・一五事件と二・二六事件」の関連用語

五・一五事件と二・二六事件のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



五・一五事件と二・二六事件のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの第二次世界大戦 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS