二二六事件後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 14:34 UTC 版)
1936年2月26日、二二六事件が勃発する。殺害された教育総監渡辺錠太郎は、前年に天皇機関説を擁護した̚ことがあり、このことが殺害理由の一つになったという。 1936年5月貴族院本会議において天皇機関説について質疑が出て、広田弘毅首相は「厳正にこれを取締ってまいりたいと思う」と答弁し、平生釟三郎文相も「天皇は統治権の主体であって統治権は一に天皇に存すという国体の本義に反したる学説の講義もしくは講演は、何処の学校においても絶対に禁止しておるのであります」と答弁する。同月、文部省は「学校教育刷新充実に関する経費」18万4千円の追加予算を議会に提出し認めらる。これは「小学校より大学に至る各階級の学校に使用せる教科書、教授要目、プリント等につき、いやしくも国体明徴に関係を有せるものは総べてこれを再検討し根本的にこれが改訂を行う」ものである。同時に教授要目も急ぎ改訂される。 1936年6月思想局長伊東延吉が専門学務局長を兼任する。翌月、伊東延吉は思想局長名で大学に通牒を発し、日本文化講義、すなわち「日本文化、国体の本義に関する特別講義」の実施を指示する。これに対し東大で反発の声が上がる。9月の評議会の場で、法学部長穂積重遠は、学生は忙しく講座実施は困難である、そんな時間があるなら自然科学の講義を切望すると述べ、また経済学部長河合栄治郎は大学自治に影響が及ぶ懸念を示すなど、反対の意向を表明したのである。東大では通牒通りの実施はできないと文部省に返答する。
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