中間内閣と軍部の台頭
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/16 16:49 UTC 版)
ところが、1932年5月15日の五・一五事件で政友会の犬養毅首相が暗殺されると、政党政治は終焉して軍人首班の中間内閣の時代(斎藤内閣・岡田内閣)に入る。この中間内閣には民政党から2人ずつの閣僚(斎藤内閣…山本達雄(内務大臣)・永井柳太郎(拓務大臣)、岡田内閣…町田忠治(商工大臣)・松田源治(文部大臣))が入閣した。だが、軍部の発言力の増大に比例するかのように政党の存在感は低下していくようになる。 そこで1933年(昭和8年)、町田忠治が主宰してシンクタンクである「政務調査館」を発足させ、その一方で宇垣一成元陸軍大臣を擁して政友会との連携を図った。ところが犬養の死後に政友会総裁になったのは以前の選挙の際に民政党を違憲と発言した鈴木喜三郎であった事から民政党内部に反発が生じ、加えて鈴木も中間内閣そのものを否定して野党路線を選択した事から失敗に終わった。 加えて、若槻総裁が帝国議会で軍備拡張を批判して「骸骨が大砲を牽く」と発言した事が軍部や右翼の攻撃を招き、1934年(昭和9年)7月に若槻は総裁辞任に追い込まれた。余りの突然の総裁辞任に町田忠治が総務会長に就任して暫定的に党務を行い後継総裁の選出を行おうとするものの、結論に至らず結局町田がそのまま総裁に就任する事になった。 1936年(昭和11年)2月26日から発生した二・二六事件後の廣田内閣以後も林内閣を除いて閣僚(廣田内閣…川崎卓吉→小川郷太郎(商工大臣)・頼母木桂吉(逓信大臣)、第1次近衛内閣…永井柳太郎(逓信大臣)、平沼内閣…櫻内幸雄(農林大臣)、阿部内閣…永井柳太郎(逓信大臣)、米内内閣…櫻内幸雄(大蔵大臣)・勝正憲(逓信大臣)・第2次近衛内閣…小川郷太郎(鉄道大臣))を入閣させ、またライバルである政友会の分裂騒動も追い風となって衆議院の議席数でも第1党を維持してきたが、軍部の台頭の前にその発言力が低下していった。
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