二二八和平紀念碑碑文
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「二二八和平公園」の記事における「二二八和平紀念碑碑文」の解説
1945年日本戰敗投降,消息傳來,萬民歡騰,慶幸脱離不公不義之殖民統治。詎料台灣行政長官陳儀,肩負接收治台重任,卻不諳民情,施政偏頗,歧視台民,加以官紀敗壞,産銷失調,物價飛漲,失業嚴重,民衆不滿情緒瀕于沸點。 (1945年に日本が敗戦し投降した。この消息が伝わると、みなが喜びに沸きかえり、不公平で不正義の植民統治から離脱できることを祝った。しかし、期待に反し、台湾行政長官の陳儀は接収の重責を担っているにもかかわらず、民情に暗く施政は極めて偏向し、台湾の民を軽蔑した。さらに官吏の風紀は腐敗し、生産、販売は失調し、物価は暴騰し、失業は深刻となり、民衆の不満は沸点に達した。) 1947年2月27日,專賣局人員于台北市延平北路查緝私煙,打傷女販,誤殺路人,激起民憤。次日,台北群衆遊行示威,前往長官公署請求懲凶,不意竟遭槍擊,死傷數人,由是點燃全面抗爭怒火。爲解決爭端與消除積怨,各地士紳組成事件處理委員會,居中協調,並提出政治改革要求。 (1947年2月27日、専売局の職員が台北市延平北路において密売タバコ取り締まりを行った際、婦人の販売人を殴打し、通行人を誤って殺害したことから、民衆の激憤を引き起こした。翌日、台北の群衆はデモ行進を行い、犯人の処罰を求めて長官公署を訪れた。ところが、射撃にあい、数人の死者を出した。これより抗争の怒りの火は全面的に広がることになった。争いを解決し、積もり積もった怨恨を取り除くため、各地の指導者は事件処理委員会を組織し、調停にあたるとともに、政治改革の要求を提出した。) 不料,陳儀顢頇剛愎,壹面協調,壹面以士紳爲奸匪叛徒,逕向南京請兵。國民政府主席蔣中正聞報,即派兵來台。3月8日,二十壹師在師長劉雨卿指揮下登陸基隆。10日,全台戒嚴。警備總司令部參謀長柯遠芬、基隆要塞司令史宏熹、高雄要塞司令彭孟緝及憲兵團長張慕陶等人,在鎮壓清郷時,株連無辜,數月之間,死傷、失蹤者數以萬計,其中以基隆、台北、嘉義、高雄最爲慘重,事稱二二八事件。 (しかし、予期に反し陳儀は愚鈍で強情で一方で調停に応じると見せながら、一方で地方のリーダーたちを反徒とみなし南京に派兵を求めた。国民政府主席の蒋中正(蒋介石)は報告を聞くと直ちに兵を台湾に派遣した。3月8日、21師団が師団長の劉雨卿の指揮の下に基隆に上陸し、数ヶ月間、死者、行方不明者は数万を数えた。そのうち、基隆、台北、嘉義、高雄、が最も凄惨だった。この事件は二二八事件と呼ばれている。) 斯後近半世紀,台灣長期戒嚴,朝野襟若寒蟬,莫敢觸及此壹禁忌。然冤屈鬱積,終須宣泄,省籍猜忌與統獨爭議,尤屬隱憂。1987年解嚴後,各界深感沈疴不治,安和難期,乃有二二八事件之調查研究,國家元首之致歉,受難者與其家屬之補償,以及紀念碑之建立。療癒社會巨創,有賴全民共盡心力。勒石雋文,旨在告慰亡者在天之靈,平撫受難者及其家屬悲憤之情,並警示國人,引爲殷鑒。自今而後,無分你我,凝爲壹體,互助以愛,相待以誠,化仇恨于無形,肇和平于永恒。天佑寶島,萬古長青。 (それから半世紀、台湾は長期的な戒厳令下にあって、朝野とも口を閉ざし誰もこのタブーに触れようとしなかった。しかし、屈服と鬱積は最後には発散されなければならない。とりわけ、省籍による不信感と統一・独立に対する争いは覆い隠される。1987年の戒厳令解除後、各界はこの事態の困難さと、和解の難しさを深く感じたために、二二八事件の調査・研究、国家元首の謝罪、受難者と遺族への補償、そして記念碑の建立を行った。社会の大きな傷を癒すためにはすべての国民がともに心を尽くすことが必要である。碑文を刻むことには天にある死者の魂を慰め、受難者と遺族の悲憤を鎮めるとともに、これを鏡とするよう国民に警告を与えるという趣旨がある。今後、敵味方を分かたず、一体となって互いに助け合い、互いに誠実に恨みをなくし、平和を永遠のものとしようではないか。宝の島に天の恵みあれ、永遠に栄あれ。) 財團法人二二八事件紀念基金會謹立。 二二八和平紀念館 野外音楽堂 台北市 二二八和平 公園 慰霊塔 台北市 二二八和平記念碑 碑文 急公好義坊 銅牛 銅馬 紀念鐘 蒸気機関車 台鉄九号
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