台湾行政長官
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「フレデリック・コイエット」の記事における「台湾行政長官」の解説
コイエットはオランダ東インド会社の最後の台湾行政長官として知られている。1656年6月30日の着任後、台湾から上がる収益は急拡大し、コイエットの評価は高まった。この間、コイエットは鄭成功の危険性を引き続き訴え動向にはまだ注意が必要と繰り返し報告するが、やはりゼーランディア城の防備の強化は却下された。この為、コイエットはバタヴィアの許可なしに、城の強化を行なった。 1660年になると、会社も台湾の危機を認識し始めた。1660年7月16日、ヤン・ファン・デル・ラーンを司令官とする12隻からなる救援艦隊がバタヴィアを出航し、9月には台湾に到着した。しかし、この艦隊は台湾に問題が無いようならば、マカオのポルトガル軍を攻撃するように命令されていた。防御戦に勝利しても新たに得られるものは無いが、マカオを攻略すれば莫大な利益を得ることができる。この為、当初よりファン・デル・ラーンは台湾の危機を軽視しており、コイエットと意見が対立し、1661年2月には4隻を残してバタヴィアに戻ってしまった。ファン・デル・ラーンはコイエットは長官としては不適と訴えたため、会社はヘルマン・クレンクを新長官に任命した。 1661年4月30日、ついに鄭成功は戎克船300隻、兵士25000名の兵力でゼーランディア城の近海に来襲した。これに対するオランダ側の守備兵力は1140名に過ぎなかった。翌日から陸海で激戦が繰り広げられた。4隻しか残っていなかったオランダ船は、最大の船が爆沈、残り3隻は脱出した。陸上ではオランダ軍は良く耐え、鄭成功は5月末から積極的な攻撃を中止して包囲戦に移った。 6月24日、ゼーランディア城から脱出した船がバタヴィアに到着し、戦闘が開始されたことが報告された。7月5日、ヤコブ・カーウを司令官とする9隻の艦隊がバタヴィアから出撃したが、カーウには戦闘経験がなかった。7月30日、「新長官」のクレンクが到着したが、戦闘中であることを知ると、台湾には上陸せず長崎に逃げてしまった。8月12日、カーウ率いる救援艦隊が到着するが、悪天候で上陸出来ず、ようやく9月8~10日にかけて補給品と兵士を揚陸させることに成功した。9月16日、オランダ艦隊が鄭成功の艦隊に攻撃を仕掛けるが失敗した。 鄭成功の台湾攻撃を知った清は救援を申し出た。ここで、11月26日にカーウが清の救援軍を輸送するという名目で艦隊を率いて脱出し、そのままバタヴィアへ逃亡してしまった。これでオランダ軍の士気は低下したが、鄭成功は城の内部事情は把握していなかった。しかし、脱走兵が城内の様子を伝えたこともあり、鄭成功は包囲戦から積極攻撃に作戦を変更、1662年2月10日、9ヶ月間にわたる篭城の末にコイエットは降伏した。コイエットは必要な物資を与えられてバタヴィアへと送り返された。 コイエットはフランソワ・カロンの義理の兄であり、それまではカロンの引き立てがあった。しかし、カロンはすでに帰国しておりその庇護はなかった。またスウェーデン人のコイエットを積極的にかばうオランダ人もいなかった。このため、一旦は「死刑」の求刑を受け、3年の幽閉後にバンダ諸島のアイ島へ永久追放となった。その後、スウェーデン政府の働きかけもあり、9年後の1674年に恩赦で釈放された。このときの条件は、一旦オランダに戻ったならば二度と出国してはならないというものだった。これは、義弟のカロンが1667年にライバルのフランス東インド会社の長官となっていたことが影響したと思われる。結局故国のスウェーデンに戻ることは無く、オランダで死去した。
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台湾行政長官
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1644年には台湾行政長官に任命され、7月5日バタヴィアを出発8月10日にはゼーランディア城に着任した。到着後すぐに病気にかかったため、しばらく前任者のル・メールが次席としてカロンを補佐した。1646年まで同地での東インド会社の最高位にあった。 この間に、カロンは米、砂糖、インディゴ生産の改善、硫黄の採掘、中国の海賊との取引の緩和を行った。1644年には4隻、45年には7隻の貿易船を日本に送り出している。 カロンは1641年から43年までのオランダ滞在時に25歳年下のコンスタンチヤ・バウデーンと知り合っていた。前妻の死亡後、カロンは独身となっていたが、1644年9月に代理人を立ててハーグでコンスタンチヤとの結婚式を行った。1645年6月、コンスタンチヤは姉のスザンヌと共に台湾に到着した。スザンヌはそこでフレデリック・コイエットと結婚している。 カロンはそこでコンスタンチヤに贅沢をさせたようで、それもあってバタヴィアに呼び戻された。
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台湾行政長官
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失敗に終わった訪日から戻ると、ノイツはタイオワン(現在の安平区)のゼーランディア要塞(後の安平古堡)に居を構え、第3代台湾行政長官に就任した。ノイツの初期の目的の一つは、17世紀初頭に東アジアに到着して以来、オランダが逃してきた中国での貿易の道を開くことだった。この目標を推進するために、ノイツは中国の貿易交渉担当者である鄭芝龍を人質に取り、オランダに貿易特権を与えることを同意させるまで開放しなかった。なお、30年以上後にオランダの台湾統治を終わらせることとなる鄭成功は、鄭芝龍の息子である。 ノイツは長官時代、台湾原住民の女性をベッドに連れ込み、通訳をベッドの下に潜ませてピロートークを通訳させていたとして悪評を買った。ノイツはまた、会社の規則で禁じられていた私的貿易から利益を得ていたともいわれている。この時期に台湾人女性と正式に結婚したとする資料もあるが 、最初の妻コーネリアと法的にはまだ結婚していたので、その可能性は低いと思われる。 ノイツによる原住民の扱いもまた不安材料であり、新港社(中国語版)(現在の台南市新市区に居住した原住民)の人々は彼による過酷な扱いを「日本人の寛大なもてなし」と対比していた。ノイツは原住民を低く評価しており、「善も悪も知らない素朴で無知な人々」と記している。 1629年に麻豆渓事件が発生しオランダ兵士ら60人が殺害されるが、ノイツはゼーランディア要塞に戻るため早めに切り上げていたため難を逃れた。この事件は後の1635年から36年にかけて行われた鎮撫作戦(英語版)の口実となった。 ノイツが長官を務めていた1629年、スペインが台湾に進出してきた。ノイツはこの事態を深く憂慮し、スペイン人を淡水や鶏籠(現在の基隆)の拠点から追い出すべく、バタヴィアに宛てて遠征を求める緊急の手紙を出している。手紙の中でノイツは、スペイン人がオランダの活動を妨害する可能性があることや、島の北部を占領することでオランダが得られる貿易上の利益を強調した。植民地当局はノイツの要求を無視し、1641年までスペイン人に対して何ら行動を起こさなかった。
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