二大政党の時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 02:04 UTC 版)
昭和に入ってからの政友会は民政党と交替で数年間にわたって政権を担うこととなる。1930年(昭和5年)の浜口雄幸首相遭難事件や1932年(昭和7年)五・一五事件での自党の犬養毅暗殺を政党政治の危機とはとらえず、民政党追い落としを画策して、親軍的保守的性格を却って強めたため国民の信を失い、犬養首相暗殺後「政党内閣で首相の死去による内閣総辞職の場合は後継の与党党首に大命が降下する」という「憲政の常道」にもかかわらず政権を逃し、1936年の総選挙では総裁の鈴木喜三郎が落選するなどの大惨敗を喫し、民政党、社会大衆党の躍進を許した。その後は1937年(昭和12年)浜田国松のいわゆる「腹切り問答」に代表されるような反ファッショ姿勢に一時的には転換したものの、盧溝橋事件に端を発する日中戦争の拡大以後は戦争に協力する姿勢に戻った。さらに1939年に次期総裁をめぐり久原房之助と中島知久平の2派に分裂する(後述)。1940年(昭和15年)に両派とも解党して新体制運動に参加、大政翼賛会に合流した。
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