後期文芸協会
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抱月らと逍遥が相談した結果、演劇を中心に再出発することになった。1909年、逍遥の自邸内に協会附属の演劇研究所を設置し、研究生を養成した。翌1910年、逍遥を会長とする演劇団体に改組した。1911年5月、演劇研究所の1期卒業生らが帝国劇場で『ハムレット』を演じ(『ハムレット』完全上演は日本初)、オフィーリア役を演じた松井須磨子が評判となった。同年11月、松井はイプセンの戯曲『人形の家』(抱月訳)のノラ役などで大当たりを取った。『人形の家』は「青鞜」(1911年創刊)とともに「新しい女」の象徴となった。 第5回公演を終えた頃、妻子ある抱月と松井須磨子の恋愛スキャンダルが発覚し、協会内が分裂の危機を迎えた。結局、抱月は辞任し、松井は退所処分となった。やがて、抱月は松井と共に芸術座を結成した。 1913年の『ジュリアス・シーザー』(逍遥訳)を最後に文芸協会は解散した。逍遥が演劇研究所の土地建物を処分して負債を整理した。
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