1880年代:分裂の危機
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/26 03:30 UTC 版)
「アメリカ合衆国共和党の歴史」の記事における「1880年代:分裂の危機」の解説
1870年代後半以降、政界の腐敗への対応をめぐって、共和党は深刻な分裂に陥っていった。ロスコー・コンクリング(英語版)上院議員率いる愛党派(英語版)は猟官制やマシーン(集票組織)を擁護した。これに対し、メイン州のジェイムズ・G・ブレイン上院議員らは資格任用制に基づく官庁改革を唱えて対立し、愛党派からは「混血派(英語版)」(半分しか共和党員ではないという意)と呼ばれた。1880年共和党全国大会では、愛党派のグラントが前例のない大統領三選を目指したのに対し、ブレインやジョン・シャーマン等が立候補し、誰も過半数を獲得できないまま投票が繰り返された。ようやく36回目の投票で、ブレインとシャーマンは、一部の票を集めていたジェームズ・ガーフィールドの支持に回り、最終的にガーフィールドが候補指名を受け、本選挙で当選を果たした。就任後半年でガーフィールド大統領が暗殺されると、後任には愛党派の副大統領チェスター・A・アーサーが昇格した。ところが、愛党派の期待をよそに、アーサーは官庁改革を実施し、ペンドルトン公務員改革法(英語版)を成立させて、資格任用制に基づく公務員任用に改めた。 4年後の大統領選挙では、ジェイムズ・ブレインが現職アーサー等を破って候補指名を受けた。しかし、ブレインの汚職スキャンダルが発覚し、これを嫌った共和党内の改革派は離党して民主党候補のグローバー・クリーブランド支持に回り、その当選に寄与した。この時、共和党を離れて無所属、または民主党員となった者たちを「マグワンプ(英語版)」(アルゴンキン語で「重要人物」の意味)という。 1888年の大統領選挙では、積極的な選挙運動が功を奏し、共和党のベンジャミン・ハリソンがクリーブランドを破って当選した。内戦後、北部の経済は産業、鉄道、鉱山および農業で栄え、都市部も急速に発展した。共和党は高い成長率を持続する政策を推進しており、大規模な政府支出を行い、大企業全般を支援し、金本位制や高い関税を支持し、北部の退役軍人にも多額の年金を約束していた。しかし、1890年、ハリソン政権が成立させた非常に高額なマッキンリー関税(英語版)は不興を買った。一方で、中小企業の要求に応えようと反トラストのシャーマン法を制定したが、こちらは議会で骨抜きにされてしまった。マッキンリー関税の打撃は深刻で、1890年の中間選挙では民主党に大敗を喫し、ウィリアム・マッキンリー自身も下院議員の座を失った。この勢いに乗り、1892年の大統領選挙では民主党のグロバー・クリーブランドが返り咲きを果たした。
※この「1880年代:分裂の危機」の解説は、「アメリカ合衆国共和党の歴史」の解説の一部です。
「1880年代:分裂の危機」を含む「アメリカ合衆国共和党の歴史」の記事については、「アメリカ合衆国共和党の歴史」の概要を参照ください。
- 1880年代:分裂の危機のページへのリンク