プロフェッショナルプレーヤーの誕生と拡大
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/15 00:33 UTC 版)
「プロサッカー選手」の記事における「プロフェッショナルプレーヤーの誕生と拡大」の解説
サッカーはイングランドでのフットボール・アソシエーション (FA) の設立と共に1863年に初めて法典化された。この時は、フットボールは主にパブリックスクールあるいはパブリックスクールが基になったチームでプレーされており、アマチュアリズムが規範であった。 1880年代には労働者階級のチームが支配的となった。主に工場労働者からなるブラックバーン・オリンピック(英語版)は1883年のFAカップで優勝した。彼らは1871年に始まったこの大会で優勝した初の労働者階級のチームとなった。プロフェッショナリズムは許可されていなかったが、ブラックバーン・オリンピックは選手のために仕事を用意し、選手の収入を簿外報酬で補った。これはランカシャーのクラブでは一般的であった。 イングランド南部のアマチュア理想主義者と北部の工業都市の徐々にプロ化していたチームとの差は1884年に顕在化した。プレストン・ノースエンドがアップトン・パークを破りFAカップで優勝した後、ロンドンを本拠地とするアップトン・パークは、プレストンの勝利はプロフェッショナリズムによるものであるとして結果を覆すことを求めて抗議した。これによりFAは分裂の危機に陥った。プレストンはFAカップから撤退し、同じランカシャーのクラブであるバーンリーとグレート・リバー(英語版)も後に続いた。この抗議運動は勢いを増し、大部分は北部の30を越えるクラブが、FAがプロフェッショナリズムを認めない場合、対抗組織のブリティッシュ・フットボール・アソシエーションを設立すると宣言するまでに至った。18カ月後、FAは折れ、1885年7月にイングランドにおいてプロフェッショナリズムが公式に認められることになった。 イングランドのクラブはプロ選手を雇用するようになったがスコットランドサッカー協会はこれを禁止し続けたその結果多くのスコットランド人選手がイングランドのクラブへ移った当初、FAはこれを防ぐために居住制限を設けたが1889年にこれらは撤廃された。フットボールリーグの初年度(1888-89)、優勝クラブのプレストン・ノースエンドには10名のスコットランド人プロ選手がいた。スコットランドFAは1893年にプロフェッショナリズムの禁止を撤廃し、560名の選手がプロフェッショナルとして登録された。 イングランド以外の地域では1920年代までアマチュア主義が幅を利かせてこうした動きをルールによって規制する事が一般的であった又プロ化する事で報酬が限りなく上昇する事も問題視されていた(この問題は現在に至るまで解決されていない。)それでも1920年代中ごろには、オーストリア、チェコスロバキア、ハンガリーアルゼンチンなどがプロ化に踏み切った。
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