マラーター王国の混乱・イギリスの介入
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 06:36 UTC 版)
「マラーター王国」の記事における「マラーター王国の混乱・イギリスの介入」の解説
マラーター諸侯はマーダヴ・ラーオ・ナーラーヤンを擁するナーナー・ファドナヴィースを同盟の事実上の盟主と見なし、緩やかな連携を組んでいたが、1795年10月末に宰相マーダヴ・ラーオが突如として自ら命を絶った。彼はナーナー・ファドナヴィースの専横に耐え切れなくなったのだと言われている。 マーダヴ・ラーオの自殺により、マラーター諸侯は宰相位をめぐって争ったが、1796年12月4日にラグナート・ラーオの息子バージー・ラーオ2世がナーナー・ファドナヴィースの支持により王国の宰相となった。だが、彼の統治は名目上のもので、ナーナー・ファドナヴィースが実際の統治にあたっていた。この間、1799年に第四次マイソール戦争が行われ、さらに北部の領土を得た。 1800年4月にナーナー・ファドナヴィースが死ぬと、バージー・ラーオ2世とマラーター諸侯との関係が著しく悪くなった。翌1801年4月、バージー・ラーオ2世は王国領に襲撃をかけていたヴィトージー・ラーオ・ホールカルを捕えることに成功し、21日に象に踏みつぶさせて殺したが、これを機にホールカル家との関係がさらに悪化した。 そして、1802年10月25日、ホールカル家のヤシュワント・ラーオ・ホールカルはプネーで宰相とシンディア家の連合軍を破り、プネーを占領した(プネーの戦い)。バージー・ラーオ2世はボンベイを拠点とするイギリスのもとへと逃げ、同年12月31日に軍事保護条約バセイン条約を締結した。
※この「マラーター王国の混乱・イギリスの介入」の解説は、「マラーター王国」の解説の一部です。
「マラーター王国の混乱・イギリスの介入」を含む「マラーター王国」の記事については、「マラーター王国」の概要を参照ください。
- マラーター王国の混乱・イギリスの介入のページへのリンク