マラーター諸侯との争いとプネーからの逃亡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/15 14:25 UTC 版)
「バージー・ラーオ2世」の記事における「マラーター諸侯との争いとプネーからの逃亡」の解説
1800年4月にナーナー・ファドナヴィースが死ぬと、バージー・ラーオ2世とマラーター諸侯との関係が著しく悪くなった。ことに、インドールのホールカル家との関係はかねてからとても悪く、ヴィトージー・ラーオ・ホールカルは宰相府の領土に襲撃をよくかけていた。 1801年4月、バージー・ラーオ2世はヴィトージー・ラーオ・ホールカルを捕えることに成功し、21日に象に踏みつぶさせて殺した。だが、この残虐な処刑はその兄ヤシュワント・ラーオ・ホールカルの怒りを買うこととなった。 1802年5月、ヤシュワント・ラーオは宰相府の領土に侵攻し、マーレーガーオン、アフマドナガル、プランダル、ナーシク、ナーラーヤンガーオン、ネールなどを次々に落とし、プネーに迫った。そして、同年10月25日にバージー・ラーオ2世とシンディア家の軍がヤシュワント・ラーオの軍に敗れ(プネーの戦い)、宰相府プネーが占領されると、バージー・ラーオ2世は逃げざるを得なかった。
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