マラーター王国の隆盛
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「マラーター王国」の記事における「マラーター王国の隆盛」の解説
1785年3月、ハイダル・アリーの後継者ティプー・スルターンはマラーター王国の領土に攻め入り、戦争が勃発した。マラーター王国はマイソール軍の攻撃に苦慮し、ニザーム王国と同盟を組み、これに対処した。 1786年6月、マラーター王国軍がガジェーンドラガドの戦いでマイソール軍に大勝すると、1787年2月14日にティプー・スルターンとナーナー・ファドナヴィースとの間で和睦が成立し、ガジェーンドラガド条約が結ばれた。それでも、ナーナー・ファドナヴィースはマイソール王国の脅威を恐れ、ニザーム王国とともに警戒に当たり続けた。 1789年12月、マイソール王国とイギリスとの間に第三次マイソール戦争が勃発すると、6月にはイギリスとニザーム王国で同盟が結成された。1792年3月にマイソール王国との間に講和条約シュリーランガパトナ条約が結ばれると、マイソール王国の領土東北部を割譲された。 その後、第三次マイソール戦争で協力関係にあったニザーム王国と不和となり、1795年3月11日にマラーター王国はニザーム王国をカルダーの戦いで破った。マラーター王国は講和条約により、ダウラターバード、アウランガーバード、アフマドナガル、ショーラープルなどの地を割譲、3000万ルピーという多額の賠償金の支払いを受けた。 一方、北インドに勢力を張っていたシンディア家の当主マハーダージー・シンディアは自国の近代化を進め、1784年12月にはムガル帝国の摂政と軍総司令官となっていた。 1790年9月9日、ムガル帝国の皇帝シャー・アーラム2世に自分を北インドにおける王国宰相の代理であることに認めさせ、宰相マーダヴ・ラーオ・ナーラーヤンを皇帝代理人に任じさせた。
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