マラーター王国の宰相として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/06/10 02:45 UTC 版)
「バーラージー・ヴィシュヴァナート」の記事における「マラーター王国の宰相として」の解説
18世紀初頭、マラーター軍はムガル帝国に対して反撃に出て、1707年3月に老帝アウラングゼーブが死ぬと、同年5月にシャーフーはデリーを出た。こうして、同年帰国したシャーフーは王位継承権を主張し、マラーター王にであることを宣言した。 だが、マラーター王シヴァージー2世の摂政のターラー・バーイーが反対したため、マラーター王国は二分された。このとき、バーラージー・ヴィシュヴァナートはシャーフーの支持を素早く表明し、かねてから二人は連携を取り合っていたため、状況を有利に進めることができた。 そして、同年10月にシヴァージー2世とターラー・バーイーを打倒し、1708年1月12日にシャーフーは第5代国王となった。なお、シャーフーが即位した1708年は、マラーター王国を中心にマラーター諸侯らによるマラーター同盟結成の年とされる(とはいえ、マラーター同盟の確立はもう少し後である)。 バーラージー・ヴィシュヴァナートはその功績で側近となり、1713年11月16日にマラーター王国の宰相(ペーシュワー)となった。また、彼はコンカン地方のバラモンを多く登用し、同盟内における彼らの地位を固め、その後一世紀近くにわたり彼の家系がマラーター王国の宰相位を独占する基礎を作った。
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