マラーター同盟内の内紛とバセイン条約の締結
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「第二次マラーター戦争」の記事における「マラーター同盟内の内紛とバセイン条約の締結」の解説
マラーター同盟内では、1794年にシンディア家当主マハーダージー・シンディアが、1795年にホールカル家当主アヒリヤー・バーイー・ホールカルという2人の強力な諸侯が死亡し、また同年にはマラーター王国では宰相マーダヴ・ラーオ・ナーラーヤンが自殺するなど、混乱の様相を極めていた。 1796年12月にマラーター王国の宰相となったバージー・ラーオ2世は、第一次マラーター戦争の原因となった元宰相ラグナート・ラーオの息子であったため、マラーター諸侯との関係は険悪だった。 バージー・ラーオ2世はホールカル家のヤシュワント・ラーオ・ホールカルと特に仲が悪く、1801年4月にはその弟ヴィトージー・ラーオ・ホールカルを「ゾウによる踏み付け」という極めて残酷な方法で処刑したため、両者の争いは決定的となった。 1802年10月25日、ヒンドゥーの祭礼の日、ヤシュワント・ラーオは宰相府とシンディア家の軍を破り、プネーを占領した(プネーの戦い)。バージー・ラーオ2世はボンベイのイギリスのもとへと逃げざるを得なかった。 この内紛に際し、リチャード・ウェルズリーは総督の権限を行使し、自らこの問題に介入することにした。そして、12月31日にバージー・ラーオ2世はイギリスの援助を得るために軍事保護条約バセイン条約に調印してしまった。 イギリスはあっさりとマラーターとの関係に決着をつけたかのように思えたが、リチャード・ウェルズリーは一つ勘違いをしていた。荒々しくも勇猛で、そして誇り高きマラーターの戦士が一戦も交えずに引き下がるなど、とても有り得ない話であった。
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