帝国主義とイギリスとの対立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/05 14:55 UTC 版)
「ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)」の記事における「帝国主義とイギリスとの対立」の解説
ドイツはビスマルク時代にアフリカや太平洋地域において植民地を獲得していたが(ドイツ植民地帝国)、イギリス(イギリス帝国)やフランス(フランス植民地帝国)に比べると圧倒的に少なかった。そのためヴィルヘルム2世は、より多くの植民地を獲得してドイツを「陽のあたる場所」に導くことを目指した。「世界政策」とよばれる膨張政策が開始されることとなった。ヴィルヘルム2世が植民地拡大にこだわったのは覇権主義より非軍事的要因が大きかった。植民地政策は国民の関心を国内問題から対外問題にそらし、国内世論を統一するうえで最も有効な手段であった。またビスマルク時代以降、ドイツは大きな戦争に巻き込まれることも無く、産業化に成功し経済規模は拡大していた。1875年に4200万人だったドイツの人口は1913年には6800万人に増加していた。この余剰人口を海外へ移住させたいという意図もあった。 1890年に外務省内に植民地局を設置させ、1894年からこの局に植民地に関する全権を任せ、植民地を一括管理下においた(同局は1907年に帝国植民地省として独立した省庁になる)。1895年にはロシアの求めに応じてフランスと共に日本に三国干渉をかけ、遼東半島を清に返還させた。三国干渉はドイツにとって極東進出の足がかりにするとともにロシアに極東の権益に関心を持たせることによってヨーロッパや中近東における同国の影響力を下げようという意味があった。三国干渉後まもなくドイツに極東進出のチャンスがやってきた。1897年11月に山東省においてドイツ人カトリック宣教師が殺害されたのである(曹州教案)。この事件を口実に清に遠征を行い、翌1898年に清から山東半島南部の膠州湾租借地を獲得した。更にこの直後に南太平洋のカロリン諸島やマリアナ諸島も獲得した。 とはいえ、それ以外の植民地拡大はなかなか捗らなかった。植民地拡大にはなんといっても巨大な海軍力が不可欠であった。元来ドイツは陸軍大国であり、海軍は陸軍の付属的な存在と看做されて軽視されてきた。ヴィルヘルム2世はアメリカの海軍理論家アルフレッド・セイヤー・マハンの著作に強い影響を受けていたため、世界を制するには海を制する必要があり、それには巨砲を搭載した巨大戦艦が必要であると確信した。ヴィルヘルム2世は1896年1月18日の演説で「ドイツ帝国は今や世界帝国となった」、1898年9月23日の演説で「ドイツの将来は海上にあり」と宣言した。 1897年6月にアルフレート・フォン・ティルピッツが海軍大臣に就任し、彼の下で大規模な建艦計画が始動し、艦隊増強の指針を定めた「艦隊法」が制定された。これを恐れたイギリスも自国艦隊の増強を開始した。当時のイギリスの海軍力は世界最強であり、ドイツがイギリスに対抗し得る海軍力の到達点は果てしなく、英独両国の建艦競争は泥沼化することとなった。とはいえドイツにとって艦隊とはあくまでイギリスに「ドイツ艦隊侮りがたし」と思わせることで植民地争奪交渉を有利にするための政治的道具であった。したがって実際にイギリスに追いつく必要はないし、イギリスに危険と認識させられれば十分であった(ティルピッツはこれを「危険艦隊」思想と呼んだ)。 1900年以降のヴィルヘルム2世の「世界政策」は2つの方向性で行われた。一つはアフリカに大植民地を得ること、もう一つはバルカン半島や中近東など南東にドイツの勢力を拡大していくことであった。後者はドイツ、オーストリア、オスマン帝国の同盟によって経済的統一体を作ることを目指していた。その象徴がバグダート鉄道と3B政策であった。ドイツは1888年にオスマン帝国からアナトリア鉄道の建設の特許を得ていた。1898年のヴィルヘルム2世のオスマン帝国訪問でドイツの中近東への進出政策は加速した。この訪問の際にヴィルヘルム2世は「ドイツは全世界3億のイスラム教徒の友である」と演説したが、イスラム教徒を数多く版図におさめるイギリス、フランス、ロシアを刺激した。この演説はドイツがイスラム教徒と結託して英仏露のイスラム支配体制を転覆しようと企てている証拠として英仏露に後々まで引用された。1903年からはドイツ資本のバグダード鉄道が鉄道建設を本格化させる。ベルリン、ビザンティン、バグダードを結んでドイツの影響力をペルシャ湾まで及ぼそうとした(3B政策)。しかし「3B政策」は、ロシアのバルカン・中近東への南下政策やイギリスのカルタッタ、カイロ、ケープを結ぶ「3C政策」に脅威となるものであった。英仏露が激しく反発し、バグダード鉄道の鉄道建設は大幅に遅れ、最終的に第一次世界大戦のドイツの敗戦によって挫折することとなる。 1896年に南アフリカのイギリス植民地ローデシアの南アフリカ会社騎馬警察隊がボーア人国家トランスヴァール共和国の金鉱を狙って同国に侵入したジェームソン侵入事件(英語版)においてヴィルヘルム2世は鎮圧に成功したトランスヴァール共和国大統領ポール・クリューガーに宛てて祝電を送った。この祝電はジェームソン侵入事件を批判するイギリス以外のヨーロッパ諸国からは称えられたが、イギリスとの関係は悪化した。祖母ヴィクトリア女王からも手紙が贈られてきて苦言を呈された。これ以降ヴィクトリアは様々な理由を付けてヴィルヘルム2世の訪英を拒否するようになり、再び訪英を許されたのは1899年になってのことだった。 列強諸国の清の植民地化を描いた挿絵。英女王ヴィクトリアと睨みあう独皇帝ヴィルヘルム2世。 バグダート鉄道の路線図。
※この「帝国主義とイギリスとの対立」の解説は、「ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)」の解説の一部です。
「帝国主義とイギリスとの対立」を含む「ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)」の記事については、「ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)」の概要を参照ください。
- 帝国主義とイギリスとの対立のページへのリンク