帝国ホテル従業員・牧口銀司郎の派遣
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「久田吉之助」の記事における「帝国ホテル従業員・牧口銀司郎の派遣」の解説
1917年8月、久田工場で仕事を始めた寺内信一だったが、いまだ「黄色い煉瓦」を焼くことは出来ずにいた。寺内が、より敷地の広い沢田土管工場を借りる契約を結ぶと、久田との軋轢はさらに高まり、久田は煉瓦の焼き上がる直前に窯の入り口を破壊するなどの行動を繰り返したという。寺内は、技術に専念したいので会計主任を派遣してほしいと林支配人に要望した。 9月、林支配人は事態を収拾しようと、26歳の帝国ホテル従業員・牧口銀司郎を会計主任としてとして常滑に派遣した。東京の若きホテルマンであった牧口は、窯業産地独特の仕事のやり方に苛立ち、久田との間に激しい対立が生じた。 久田吉之助も「土の事から心配し」と言っていたように、当時の陶工は粘土の出る山を選定することから始め、焼成のための窯や工作機械を自作し、その上で焼成実験を繰り返して成果をだす、長いスパンで仕事に取り組むのが常であった。例えば、久田に師事したこともある池田泰山が東京国立博物館の鬼瓦製作の仕事を請け負った際には、黒瓦の産地の愛知県高浜市の「三州瓦」の製陶所と組んで合資会社を設立し、3年間かけて製作をおこなっている。東京のサラリーマンである牧口銀司郎はそうした窯業のありようを理解せず、「そもそもライトさんがわざわざ常滑まで土を見に来る必要はなかった」など、土の選定が重視されること、また設備費を要求されることへの反発を繰り返し綴っている。 都会の近代経営の会社組織から派遣されてきた技術者・管理者と、常滑の陶工・職工たちとの軋轢は、久田吉之助の事例に限ったことではなく、よくあることであった。常滑の職工には、農業の傍らの甕作りという意識が根強く残っており、農業祭事があれば朝から工場を休む一方で、「俺たち”働きど”は”弁当箱(月給取り)”とは違わい」という職人としてのプライドがあった。1921年に日本陶器の大倉和親らの出資を受け、伊奈製陶所が発足した際にも、赴任してきた大倉の懐刀が規律の厳正化を求めて職工たちの反発を買い、「袋叩きにしてやる」とすごまれる事態になっている。 牧口を任命する際、林愛作支配人が「君は土方社会に居ったような経験はないかね」と聞いているのに表れているように、帝国ホテル側には、久田吉之助の、武田五一のような有名建築家と仕事をしてきた実績への敬意はない。牧口は、16歳の時から東京に勉学に行き、寺内信一と同じく東京高等工業学校を卒業して経営者の道を歩んでいた伊奈長三郎宅に親しく出入りするようになるが、伊奈長三郎の伝記にも、久田吉之助については「前に借りていた工場主とのイザコザ」とあるのみで、その名前さえも記されていない。
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