帝国ホテル従業員・牧口銀司郎の派遣とは? わかりやすく解説

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帝国ホテル従業員・牧口銀司郎の派遣

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/29 10:01 UTC 版)

久田吉之助」の記事における「帝国ホテル従業員・牧口銀司郎の派遣」の解説

1917年8月久田工場仕事始めた寺内信一だったが、いまだ「黄色煉瓦」を焼くことは出来ずにいた。寺内が、より敷地の広い沢田土管工場借り契約を結ぶと、久田との軋轢はさらに高まり久田煉瓦焼き上がる直前に窯の入り口破壊するなどの行動繰り返したという。寺内は、技術専念したいので会計主任派遣してほしいと支配人要望した。 9月支配人事態収拾しようと、26歳帝国ホテル従業員・牧口銀司郎会計主任としてとして常滑派遣した東京若きホテルマンであった牧口は、窯業産地独特の仕事のやり方苛立ち久田との間に激しい対立生じた久田吉之助も「土の事から心配しと言ってたように当時陶工粘土の出る山を選定することから始め焼成のための窯や工作機械自作しその上で焼成実験繰り返して成果をだす、長いスパン仕事取り組むのが常であった例えば、久田師事したこともある池田泰山東京国立博物館鬼瓦製作の仕事請け負った際には、黒瓦の産地愛知県高浜市の「三州瓦」の製陶所組んで合資会社設立し3年間かけて製作をおこなっている。東京サラリーマンである牧口銀司郎はそうした窯業ありよう理解せず、「そもそもライトさんがわざわざ常滑まで土を見に来る必要はなかった」など、土の選定重視されること、また設備費要求されることへの反発繰り返し綴っている。 都会近代経営会社組織から派遣されてきた技術者管理者と、常滑陶工職工たちとの軋轢は、久田吉之助事例限ったことではなくよくあることであった常滑職工には、農業傍らの甕作りという意識根強く残っており、農業祭事があれば朝から工場を休む一方で、「俺たち働きど”は”弁当箱月給取り)”とは違わい」という職人としてのプライドがあった。1921年日本陶器大倉和親らの出資を受け、伊奈製陶所が発足した際にも、赴任してきた大倉懐刀規律厳正化求めて職工たちの反発を買い、「袋叩きしてやる」とすごまれる事態になっている。 牧口を任命する際、林愛作支配人が「君は土方社会居ったような経験はないかね」と聞いているのに表れているように、帝国ホテル側には、久田吉之助の、武田五一のような有名建築家と仕事をしてきた実績への敬意はない。牧口は、16歳の時から東京勉学行き寺内信一同じく東京高等工業学校卒業して経営者の道を歩んでいた伊奈長三郎宅に親しく出入りするうになるが、伊奈長三郎伝記にも、久田吉之助については「前に借りていた工場主とのイザコザ」とあるのみで、その名前さえも記されていない

※この「帝国ホテル従業員・牧口銀司郎の派遣」の解説は、「久田吉之助」の解説の一部です。
「帝国ホテル従業員・牧口銀司郎の派遣」を含む「久田吉之助」の記事については、「久田吉之助」の概要を参照ください。

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