ユンカーと農村の近代化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/10 04:55 UTC 版)
19世紀初頭、プロイセンはナポレオン・ボナパルト率いるフランス軍に敗北し、エルベ川以西の領土を喪失した。 プロイセンは早急に近代化して生まれ変わる必要性に迫られ、改革が推し進められることになった。その一つが農民解放であり、これによりグーツヘルシャフトのあり方も大きく変わった。土地売買の自由、職業選択の自由、土地の分割と統合の自由、隷農制の廃止、農民の土地所有権の保護、また賦役の償却(領主に対して農地の一部や償却金などの補償を差し出すことで賦役を無くすことができる)などが認められた。 しかしこれはユンカーの力を低下させる物ではなく、ユンカーにとっても償却によって直営農地を更に拡大できたので悪い話ではなかった。またユンカーの領主裁判権や領主警察権はそのまま温存された。郡議会にユンカーだけでなく農民代表も出席できるようにするという改革も計画されたが、これはユンカーの猛反対によって挫折している。 ユンカーは直営農地(騎士領)を更に拡大しつつ、隷農の賦役による農業経営から、賃金が支払われる農業労働者を用いた農業経営へと転換させていき、農業の資本主義化・合理化を図っていった。一方で土地売買自由化によって裕福な市民や農民がユンカーから騎士領を買い取るケースも増えた。1850年の時点で1万2339の騎士領のうち貴族(ユンカー)所有は57%程度になっていた。 1848年革命の際にユンカーの領主裁判権が廃止され、ついでドイツ統一後の1872年に領主警察権が廃止された。ユンカーはドイツ統一には消極的だった。だが統一の中心人物だったプロイセン宰相オットー・フォン・ビスマルクはユンカーの出身だった。ドイツ帝国の樹立後、ユンカーは軍や中央官庁の中で一層影響力を拡大させた。 19世紀末頃から穀物価格の下落と急速な工業化に伴ってユンカーは経済的に苦しくなったが、それが彼らを一層保守的にした。
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