コンスタンティノープル制圧
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/18 06:08 UTC 版)
「アレクシオス・ストラテゴポウロス」の記事における「コンスタンティノープル制圧」の解説
こうした揺り戻しはあったものの、ペラゴニアの勝利でニカイア帝国が得た優位が揺らぐことはなく、ミカエル8世は最大の目標であるコンスタンティノープル奪回へと進み始めた。このかつてのビザンツ帝国首都だった都市は、1204年に第4回十字軍が占領して以降、ラテン帝国の支配下にあった。1260年、ミカエル8世はコンスタンティノープルを攻撃したが失敗し、8月にラテン帝国と1年間の休戦を結んだ。次の戦争に向けて、ミカエル8世は1261年3月にジェノヴァ共和国とニンファエウム条約を結んで同盟し、休戦消滅間近の7月になると、少し前にエピロスから釈放されたばかりのストラテゴポウロスに800人の小部隊(大部分がクマン人)を与え、北方のブルガリアの動きとラテン帝国の防備を探りに向かわせた。 ストラテゴポウロスらはコンスタンティノープルの西方30マイル (48 km)ほどのセリュンブリア村まで来たところで、自作農(テレマタリオイ)たちからコンスタンティノープルの状況を知った。ラテン帝国軍やその同盟国であるヴェネツィア共和国の艦隊は、ニカイア領のダフノウシア島攻撃に向かっていて、コンスタンティノープルを留守にしているということであった。ストラテゴポウロスは、当初この好機を生かすことを渋った。ここでコンスタンティノープルを征服するのは越権行為であり、またいかに街が無防備とはいえ、すぐにラテン軍が帰ってくれば彼のニカイア軍は太刀打ちできないためであった。しかし最終的に、ストラテゴポウロスはこの街を奪回する絶好の機会を逃すことはできないと決断を下した。 1261年7月24日から25日にかけての夜、ストラテゴポウロス隊はテオドシウスの城壁に近づき、春の門の近くにある聖母マリア教会に潜んだ。一部の兵が先遣隊として派遣され、数人のテレマタリオイの案内に従って、秘密の通路を通ってコンスタンティノープル市内に侵入した。彼らは城門の守備兵を奇襲し、内側から門を開けた。ラテン人は全く不意を突かれ、小さな戦闘の末にニカイア軍が陸側の城壁を奪取した。この報はすぐさま都市全体に広がり、ラテン皇帝ボードゥアン2世以下ラテン人たちは金角湾沿いの港に逃げ、船で脱出を試みた。ストラテゴポウロス隊は海沿いにあったヴェネツィア人の建物や倉庫を焼き払い、ヴェネツィア軍が上陸してくるのを予防した。ラテン人住民の多くはたまたま到着したヴェネツィア艦隊に逃げ込んで近隣のフランコクラティアへ脱出したが、コンスタンティノープルの都市はニカイア帝国の手に落ちることになった。ニカイア帝国軍によるコンスタンティノープルの奪回は、ビザンツ帝国復活を知らせる象徴的な事件となった。8月15日、生神女就寝祭の日、ミカエル8世がコンスタンティノープルに入城し、ハギア・ソフィア大聖堂で戴冠式を行った。もはや共同皇帝ヨハネス4世ラスカリスは用済みとなり、この若い皇帝は目を潰されたうえで投獄された。 ストラテゴポウロスはミカエル8世から凱旋式を行う栄誉を与えられ、その名が皇帝とコンスタンディヌーポリ総主教とともに教会に刻まれた
※この「コンスタンティノープル制圧」の解説は、「アレクシオス・ストラテゴポウロス」の解説の一部です。
「コンスタンティノープル制圧」を含む「アレクシオス・ストラテゴポウロス」の記事については、「アレクシオス・ストラテゴポウロス」の概要を参照ください。
- コンスタンティノープル制圧のページへのリンク