コンスタンティノープルの興亡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 08:28 UTC 版)
「イスタンブール」の記事における「コンスタンティノープルの興亡」の解説
詳細は「コンスタンティノープル」を参照 コンスタンティヌス1世は324年9月に実質的なローマ帝国全体の皇帝になった。コンスタンティヌスは2ヶ月後に新しいキリスト教の都市にビザンティオンを置き換えるための都市計画を打ち出した。帝国の東の首都として都市は新ローマを意味するネア・ローマNea Roma と名付けられたが、一番単純なコンスタンティノープルの名称が20世紀まで続いた。6年後の330年5月11日にコンスタンティノープルはついにビザンティン帝国や東ローマ帝国の名称で知られる帝国の首都として宣言された。 この遷都にはいくつかの伝説があり、当初コンスタンティヌス1世はトロイに遷都しようと考えていたが夢で神の啓示を受けて変更した、カルケドンを予定し建設工事に取り掛かったが鷲が道具を咥えてビュザンティオンに飛び去った、また夢に現れた老婆が美しい女性に変貌し、このように古い町ビュザンティオンを新生するよう求められたという。また新都の城壁建設にも伝説があり、コンスタンティヌスが自ら槍を手に地面に線を引いて城壁の位置を指示したが、余りにも長く続くので従者が聞くと、コンスタンティヌスは「私の前を歩く御方がお止まりになるまでだ」と答えたという。 コンスタンティノープルの創建はコンスタンティヌスの最も永続的な成果として、ローマの力の東進や街をギリシャ文化やキリスト教の中心にしたことにある。多くの教会が街中に建てられ、その中にはアヤソフィアも含まれ、1000年の間世界最大の大聖堂であり続けた。コンスタンティヌスにより着手された他の街の改良にはコンスタンティノープル競馬場の大改修や拡張が含まれ、何万もの観衆を収容し競馬場は市民生活の中心となり、5世紀や6世紀にはニカの乱を含め社会不安の出来事の中心であった。 コンスタンティノープルの位置はまたその存在が時の試練に耐えることを確実とした。多くの世紀、城壁や海岸により東やイスラムの進軍する侵略者からヨーロッパを守っていた。中世の大部分の間とビザンティン時代の後半、コンスタンティノープルはヨーロッパ大陸最大で最も裕福な都市で、当時の世界最大の都市であった。第4回十字軍の後、コンスタンティノープルの衰退が始まり第4回十字軍の間に略奪や占領があった。コンスタンティノープルは後に正教会のビザンティン帝国を置き換えるために、カトリックの十字軍によって作られたラテン帝国の中心となった。しかしながら、ラテン帝国は短命でビザンティン帝国は弱体化しながらも1261年に復活した。コンスタンティノープルの教会や防衛力、基本的な公益事業は荒廃しており、人口は8世紀の50万人から10万人へ減少していた。 アンドロニコス2世によって始められた様々な経済や軍事力の削減などの軍事の政策は、帝国を弱体化させ攻撃に対してより脆弱なままにした。 14世紀半ばオスマン朝 (en) は小さな町や都市を攻略し、コンスタンティノープルへの供給路を断ちゆっくりと締め付ける戦略を始めた。1453年5月29日に8週間にわたる包囲の後、ついにスルターンのメフメト2世はコンスタンティノープルの陥落の勝者になりオスマン帝国の新しい首都として宣言された。この間、ビザンティン帝国最後の皇帝であったコンスタンティノス11世パレオロゴスは殺されている。その後、スルターンはアヤソフィアへ赴きイマームにシャハーダを命じ、壮大な大聖堂は帝国のモスクへと変わった。(トルコやイスラム世界では「イスタンブールの開拓」または「イスタンブールの征服」İstanbul'un Fethi と呼ばれている。)預言者ムハンマドのハディース(言葉)で「コンスタンティンの町」を征服する司令官やその兵士たちが褒められているという伝説があり、歴代のイスラム教司令官がイスタンブールの征服を試みた。674年から678年に、ウマイヤ朝初代のカリフ、ムアーウィヤ時代から1453年にオスマン帝国のメフメト2世までの間、イスラム教司令官により計15回の包囲が行われた。1453年にこの町を征服したオスマン帝国のメフメト2世はただちにエディルネから遷都し、イスタンブールは引き続き東地中海を支配する帝国の首都となった。
※この「コンスタンティノープルの興亡」の解説は、「イスタンブール」の解説の一部です。
「コンスタンティノープルの興亡」を含む「イスタンブール」の記事については、「イスタンブール」の概要を参照ください。
- コンスタンティノープルの興亡のページへのリンク