コンスタンティノポリス元老院とは? わかりやすく解説

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コンスタンティノポリス元老院

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/31 15:31 UTC 版)

元老院 (ローマ)」の記事における「コンスタンティノポリス元老院」の解説

330年コンスタンティヌス1世によってコンスタンティノポリスが開都されると、コンスタンティウス2世統治下で、遅くとも340年までにはコンスタンティノポリスにも元老院置かれた。当初コンスタンティノポリス元老院ローマ元老院のような栄誉法的特権有していなかったが、359年コンスタンティノポリス属州都市から地方自治都市へと昇格されたことにより、コンスタンティノポリス元老院の権限361年頃から段階的引き上げられていった。 コンスタンティノポリス元老院は、最初から東ローマ皇帝諮問機関として設立された。東ローマ皇帝不在時に東ローマ帝国代表する役割や、東ローマ皇帝後継ぎ指名せず死去した場合後継者指名する役割果たした。コンスタンティノポリス元老院はローマ元老院同じく元老院」と呼ばれてはいるものの、両者の間には違いもあった。ローマ元老院ローマ帝国の最高統治機関としてローマ皇帝からも独立しており、東西皇帝府とは対立的であったのに対し、コンスタンティノポリス元老院は常に東ローマ帝国皇帝府と密接に結びつき元老院議員ありながら東ローマ皇帝にも仕えているという人物多かった。コンスタンティノポリス元老院で議員となったのは、ローマ元老院場合同じく主に都市参事会員であった。これは、支持基盤を必要としたコンスタンティウス2世帝国東部円滑に統治するため、伝統的勢力である都市参事会員層の支持取り込み恩恵与える場が必要であったためでもある。 当初東ローマ皇帝には「元老院・軍隊・市民推戴によって初め帝位正当性を受ける」という不文律があった。これは前述ローマ元老院伝統引き継いだためである。しかし5世紀半ばになるとコンスタンティノポリスでは皇帝総主教によって正当化されるものとの認識生まれ、これが古代ローマ伝統に取って代わった。6世紀ユスティニアヌス1世絶対主義によって政治表舞台から遠ざけられたコンスタンティノポリス元老院は7世紀ヘラクレイオス王朝下で一時的に活力取り戻すものの、その役割次第儀式的なもののみとなっていった。7世紀後半以降元老院議員身分世襲認められなくなり一定上の爵位を持つ高級官僚元老院議員と呼ぶようになり、「元老院議員」であることが組織され統治体一員元老院議員)であることを意味しなくなった遅くとも850年代までにはコンスタンティノポリス元老院は実体のない存在となっており、皇帝レオーン6世は「もはや元老院言葉の上にしか残っていない」としてコンスタンティノポリス元老院の消滅正式に宣言した。しかし、あくまでも名目的ながら、その滅亡まで東ローマ帝国制度根幹元老院があるという認識存続した。

※この「コンスタンティノポリス元老院」の解説は、「元老院 (ローマ)」の解説の一部です。
「コンスタンティノポリス元老院」を含む「元老院 (ローマ)」の記事については、「元老院 (ローマ)」の概要を参照ください。

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