コンスタンティノポリス元老院
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「元老院 (ローマ)」の記事における「コンスタンティノポリス元老院」の解説
330年にコンスタンティヌス1世によってコンスタンティノポリスが開都されると、コンスタンティウス2世の統治下で、遅くとも340年までにはコンスタンティノポリスにも元老院が置かれた。当初、コンスタンティノポリスの元老院はローマの元老院のような栄誉や法的特権を有していなかったが、359年にコンスタンティノポリスが属州都市から地方自治都市へと昇格されたことにより、コンスタンティノポリス元老院の権限も361年頃から段階的が引き上げられていった。 コンスタンティノポリス元老院は、最初から東ローマ皇帝の諮問機関として設立された。東ローマ皇帝の不在時に東ローマ帝国を代表する役割や、東ローマ皇帝が後継ぎを指名せずに死去した場合に後継者を指名する役割も果たした。コンスタンティノポリス元老院はローマの元老院と同じく「元老院」と呼ばれてはいるものの、両者の間には違いもあった。ローマ元老院がローマ帝国の最高統治機関としてローマ皇帝からも独立しており、東西の皇帝府とは対立的であったのに対し、コンスタンティノポリス元老院は常に東ローマ帝国の皇帝府と密接に結びつき、元老院議員でありながら東ローマ皇帝にも仕えているという人物も多かった。コンスタンティノポリス元老院で議員となったのは、ローマ元老院の場合と同じく主に都市参事会員層であった。これは、支持基盤を必要としたコンスタンティウス2世が帝国東部を円滑に統治するため、伝統的勢力である都市参事会員層の支持を取り込み、恩恵を与える場が必要であったためでもある。 当初、東ローマ皇帝には「元老院・軍隊・市民の推戴によって初めて帝位の正当性を受ける」という不文律があった。これは前述のローマ元老院の伝統を引き継いだためである。しかし5世紀も半ばになるとコンスタンティノポリスでは皇帝権は総主教によって正当化されるものとの認識が生まれ、これが古代ローマの伝統に取って代わった。6世紀にユスティニアヌス1世の絶対主義によって政治の表舞台から遠ざけられたコンスタンティノポリス元老院は7世紀のヘラクレイオス王朝下で一時的に活力を取り戻すものの、その役割は次第に儀式的なもののみとなっていった。7世紀後半以降は元老院議員身分の世襲が認められなくなり、一定以上の爵位を持つ高級官僚を元老院議員と呼ぶようになり、「元老院議員」であることが組織された統治体の一員(元老院の議員)であることを意味しなくなった。遅くとも850年代までにはコンスタンティノポリス元老院は実体のない存在となっており、皇帝レオーン6世は「もはや元老院は言葉の上にしか残っていない」としてコンスタンティノポリス元老院の消滅を正式に宣言した。しかし、あくまでも名目的ながら、その滅亡まで東ローマ帝国の制度の根幹に元老院があるという認識は存続した。
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