コンスタンティノポリスの再建とキュッリイェの整備とは? わかりやすく解説

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コンスタンティノポリスの再建とキュッリイェの整備

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/24 05:44 UTC 版)

オスマン建築」の記事における「コンスタンティノポリスの再建とキュッリイェの整備」の解説

1453年コンスタンティノポリス陥落させた征服王メフメト2世は、ほとんど廃墟となったこの都市首都移転させた。 1465年までにはイェニ・サライ(現在のトプカプ宮殿博物館)が建設されたが、この宮殿は後に多く増改築なされたので、現在は新築当時の姿をほとんど停めてはいない。そのなかでチニリ・キョシュク(現在は装飾タイル博物館)は、メフメト2世時代建物ではほぼ完全な形で残る唯一の建物である。正面列柱18世紀再建されているが、当初木造作られペルシャ風のものであった平面プランについてもペルシャ風で、十字型交差廊の四辺各部屋が配置され交差上部にはドーム設置されかつては緑色タイル装飾されていた。 メフメト2世建立したジャーミーは、ファーティフ征服者)・ジャーミーとそのキュッリイェである。 ファーティフ・ジャーミー1470年に、新首都となって間もないイスタンブール建てられた。設計者の名はミマール・スィナンとされている。このモスクハギア・ソフィア聖堂影響直接受けて建てられ初めてのモスクといえる。アティク・シナンはこのファーティフ・ジャーミー規模ハギア・ソフィア聖堂よりも大きくすることに失敗したため、メフメト2世怒りを買い、処刑されたとも両手切断の刑に処せられたとも伝えられるが、これも確かなことは不明である。ファーティフ・ジャーミー1766年地震倒壊してし(倒壊原因は、大ドームの手前側補強欠如だったと思われる)、もともとの基礎の上当初とは著しく異なる姿で再建されたため、今日創建された当時の姿はないが、モスク当初の姿は、マトラーキーの挿絵やロリックが1559年描いた版画のなかにみることができる。研究によれば、そのドーム直径26メートルの大ドームで、それまでいかなる試みをも超えるものであり、それを頂く正方形プランで、幾何学性を重んじた造りになっていた。また、キブラ側に大ドームと同径の半ドーム備え左右側廊部は大ドーム直径半分の径をもつ小ドーム3基を備え、それらで当時モスク礼拝堂覆っていた。このモスク礼拝室設計注目される半ドーム使用また、大・小ドーム秩序立った配置対応した平面計画は、以後オスマン帝国モスク建築出発点となった狂いなく左右対称広大な外庭には、多ドーム覆われマドラサやデルヴィシュたちの宿舎や、慈善的な施設といった施設配されており、そのスケール帝国的である。 これはキュッリイェにも浸透しており、各施設理路整然としかも対称的に配置されている様は、初期段階のキュッリイェが無秩序に配置されていたのとは対照的である。キュッリイェとは、モスク中心として多数公共施設一括して計画した、いわば複合都市施設ともいうべき構造のことを言う。この種の複合施設発想そのもの中世イスラム世界において珍しいものではないが、ファーティフ・キュッリイェはオスマン朝下に建てられ最初のキュッリイェである。ここに見られる厳格な幾何学性は、オスマン帝国当時アナトリアおよびバルカン半島もたらしつつあった秩序統一とを象徴するものであった。ひとつのプロジェクトにおいてこれほどまでの統制なされたのは、オスマン帝国においてはこれが初めてである。ここでの秩序単なる独裁的な支配超えたのであるということはメフメト建造物が、王立モスクかつ葬祭の場であるとともに、ひとつの大学であったことから明らかである。前述通りモスク自体は後に再建されたのだが、前庭周囲地震による影響を受けなかったので、広々として落ち着いた空間各施設に至る古風な支えられ幅広い連続したアーチを見ることができる。礼拝ホールポルティコリワークには、ある種区別なされているが、その構成はユチュ・シェレフェリ(上段参照)のものよりうまく融合したものになっている当初礼拝ホール入口は、再建され新し建築物中に取り込まれている。そこでは、曲線途中で途切れている上心アーチがひとつ使われ、その外側を、長方形縁取っている。このキュッリイェは、現在も多く信者集め市民宗教日常生活中心となっている。 神秘主義教団関わり深かったバヤズィト2世は、教団本拠地であるエディルネジャーミーとキュッリイェを建設したバヤズィト2世ジャーミーは、外観明らかにアヤソフィア模倣であるが、内部礼拝空間はペンデンティヴ・ドームによる単一ドーム形式で、アヤソフィアはまった異なっており、このような形式は後の会衆モスク原型となった。キュッリイェには、チリニ・キョシュクに似たタブハーネや、精神疾患治療充てられた病院ダール・シッファー、マドラサ建設されファーティフ・ジャーミーほど幾何学的形式配置されているわけでないが、秩序立て配置されている。

※この「コンスタンティノポリスの再建とキュッリイェの整備」の解説は、「オスマン建築」の解説の一部です。
「コンスタンティノポリスの再建とキュッリイェの整備」を含む「オスマン建築」の記事については、「オスマン建築」の概要を参照ください。

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