コンスタンティノポリスの再建とキュッリイェの整備
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「オスマン建築」の記事における「コンスタンティノポリスの再建とキュッリイェの整備」の解説
1453年、コンスタンティノポリスを陥落させた征服王メフメト2世は、ほとんど廃墟となったこの都市に首都を移転させた。 1465年までにはイェニ・サライ(現在のトプカプ宮殿博物館)が建設されたが、この宮殿は後に多くの増改築がなされたので、現在は新築当時の姿をほとんど停めてはいない。そのなかでチニリ・キョシュク(現在は装飾タイル博物館)は、メフメト2世時代の建物ではほぼ完全な形で残る唯一の建物である。正面の列柱は18世紀に再建されているが、当初は木造で作られたペルシャ風のものであった。平面プランについてもペルシャ風で、十字型交差廊の四辺に各部屋が配置され、交差廊上部にはドームが設置され、かつては緑色のタイルで装飾されていた。 メフメト2世の建立したジャーミーは、ファーティフ(征服者)・ジャーミーとそのキュッリイェである。 ファーティフ・ジャーミーは1470年に、新首都となって間もないイスタンブールに建てられた。設計者の名はミマール・スィナンとされている。このモスクはハギア・ソフィア聖堂の影響を直接受けて建てられた初めてのモスクといえる。アティク・シナンはこのファーティフ・ジャーミーの規模をハギア・ソフィア聖堂よりも大きくすることに失敗したため、メフメト2世の怒りを買い、処刑されたとも両手切断の刑に処せられたとも伝えられるが、これも確かなことは不明である。ファーティフ・ジャーミーは1766年の地震で倒壊してし(倒壊の原因は、大ドームの手前側の補強の欠如だったと思われる)、もともとの基礎の上に当初とは著しく異なる姿で再建されたため、今日、創建された当時の姿はないが、モスクの当初の姿は、マトラーキーの挿絵やロリックが1559年に描いた彫版画のなかにみることができる。研究によれば、そのドームは直径26メートルの大ドームで、それまでのいかなる試みをも超えるものであり、それを頂く正方形のプランで、幾何学性を重んじた造りになっていた。また、キブラ側に大ドームと同径の半ドームを備え、左右の側廊部は大ドーム直径の半分の径をもつ小ドーム3基を備え、それらで当時のモスク礼拝堂を覆っていた。このモスクの礼拝室の設計で注目される、半ドームの使用・また、大・小ドームの秩序立った配置に対応した平面計画は、以後のオスマン帝国のモスク建築の出発点となった。狂いなく左右対称で広大な外庭には、多ドームで覆われたマドラサやデルヴィシュたちの宿舎や、慈善的な施設といった施設が配されており、そのスケールは帝国的である。 これはキュッリイェにも浸透しており、各施設が理路整然としかも対称的に配置されている様は、初期の段階のキュッリイェが無秩序に配置されていたのとは対照的である。キュッリイェとは、モスクを中心として多数の公共施設を一括して計画した、いわば複合都市施設ともいうべき構造のことを言う。この種の複合施設の発想そのものは中世イスラム世界において珍しいものではないが、ファーティフ・キュッリイェはオスマン朝下に建てられた最初のキュッリイェである。ここに見られる厳格な幾何学性は、オスマン帝国が当時アナトリアおよびバルカン半島にもたらしつつあった秩序と統一とを象徴するものであった。ひとつのプロジェクトにおいてこれほどまでの統制がなされたのは、オスマン帝国においてはこれが初めてである。ここでの秩序が単なる独裁的な支配を超えたものであるということは、メフメトの建造物が、王立モスクかつ葬祭の場であるとともに、ひとつの大学であったことから明らかである。前述の通り、モスク自体は後に再建されたのだが、前庭の周囲は地震による影響を受けなかったので、広々として落ち着いた空間と各施設に至る古風な柱に支えられた幅広い連続したアーチを見ることができる。礼拝ホールのポルティコとリワークには、ある種の区別がなされているが、その構成はユチュ・シェレフェリ(上段参照)のものよりうまく融合したものになっている。当初の礼拝ホールの入口は、再建された新しい建築物の中に取り込まれている。そこでは、曲線が途中で途切れている上心アーチがひとつ使われ、その外側を、長方形の枠が縁取っている。このキュッリイェは、現在も多くの信者を集め、市民の宗教・日常生活の中心となっている。 神秘主義教団と関わりの深かったバヤズィト2世は、教団の本拠地であるエディルネにジャーミーとキュッリイェを建設した。バヤズィト2世のジャーミーは、外観は明らかにアヤソフィアの模倣であるが、内部の礼拝空間はペンデンティヴ・ドームによる単一ドーム形式で、アヤソフィアとはまったく異なっており、このような形式は後の会衆モスクの原型となった。キュッリイェには、チリニ・キョシュクに似たタブハーネや、精神疾患の治療に充てられた病院ダール・シッファー、マドラサが建設され、ファーティフ・ジャーミーほど幾何学的形式で配置されているわけでないが、秩序立てて配置されている。
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