フェラーラおよびフィレンツェでの会期とは? わかりやすく解説

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フェラーラおよびフィレンツェでの会期

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/29 02:55 UTC 版)

フィレンツェ公会議」の記事における「フェラーラおよびフィレンツェでの会期」の解説

フェラーラ公会議1438年1月8日召集され10日から開催された。3月18日アルブレヒト2世フランクフルト・アム・マインローマ王となったビザンツ帝国皇帝ヨハネス8世パレオロゴスコンスタンディヌーポリ総主教ヨセフスなどの高位聖職者たちは1438年4月頭にフェラーラ到着した東西教会による合同会議1438年4月9日開会した教皇エウゲニウス4世のもと、ビザンツ皇帝コンスタンディヌーポリ総主教エフェソスニカイアキエフアレクサンドリアアンティオキアエルサレムといった東方教会の代表と西方教会司教たちが一堂会して討議行った。しかし、フェラーラでは財政的な困難や疫病の流行という事態に直面したため、教皇庁金融担当していたメディチ家コジモ・デ・メディチ)の申し出受けて1439年公会議フィレンツェ移転することになった。こうしてビザンツ皇帝東方教会聖職者たちがフィレンツェ訪れた。この公会議開催メディチ家にとって、フィレンツェ教皇庁での地位強化される盛大なイベントというメリットもあったのであるフィレンツェでの討議はサンタ・マリア・ノヴェッレ聖堂行われた討議では東西教会の間での意見不一致点を扱い、「フィリオクェ問題」の扱いめぐって難航はしたものの、一応の妥協案がつくられ1439年には合同教令「レテントゥル・チェリ(英語版)」 (Laetentur Caeli) を採択するまでに至った。これによって東西教会全面的な再統一大きく進むと見られたが、ビザンツ帝国内では、東方全教会の総意得たうえの決議ではなく政治的な思惑からのものであったため、聖職者国民らから大きな反発の声が上がり合同実現果たせなかった。モスクワ合同受け入れず合同派の府主教キエフイシドールロシア語版英語版)は追放された。 また、1453年オスマン帝国軍コンスタンティノポリス陥落させた(コンスタンティノープルの陥落)ため、以降東西教会合同向けた協議行われなくなった。しかし、この公会議によってアルメニア教会一部ローマ・カトリック教会合同しアルメニア典礼カトリック教会アルメニア語版、英語版)が成立するという一応の成果カトリック教会もたらされた。

※この「フェラーラおよびフィレンツェでの会期」の解説は、「フィレンツェ公会議」の解説の一部です。
「フェラーラおよびフィレンツェでの会期」を含む「フィレンツェ公会議」の記事については、「フィレンツェ公会議」の概要を参照ください。

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