フェラーラおよびフィレンツェでの会期
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「フィレンツェ公会議」の記事における「フェラーラおよびフィレンツェでの会期」の解説
フェラーラ公会議は1438年1月8日に召集され、10日から開催された。3月18日、アルブレヒト2世がフランクフルト・アム・マインでローマ王となった。ビザンツ帝国の皇帝ヨハネス8世パレオロゴスやコンスタンディヌーポリ総主教ヨセフスなどの高位聖職者たちは1438年4月頭にフェラーラへ到着した。東西教会による合同会議は1438年4月9日に開会した。教皇エウゲニウス4世のもと、ビザンツ皇帝、コンスタンディヌーポリ総主教、エフェソス、ニカイア、キエフ、アレクサンドリア、アンティオキア、エルサレムといった東方教会の代表と西方教会の司教たちが一堂に会して討議を行った。しかし、フェラーラでは財政的な困難や疫病の流行という事態に直面したため、教皇庁の金融を担当していたメディチ家(コジモ・デ・メディチ)の申し出を受けて、1439年に公会議はフィレンツェに移転することになった。こうしてビザンツ皇帝や東方教会の聖職者たちがフィレンツェを訪れた。この公会議開催はメディチ家にとって、フィレンツェや教皇庁での地位が強化される盛大なイベントというメリットもあったのである。 フィレンツェでの討議はサンタ・マリア・ノヴェッレ聖堂で行われた。討議では東西教会の間での意見の不一致点を扱い、「フィリオクェ問題」の扱いをめぐって難航はしたものの、一応の妥協案がつくられ、1439年には合同教令「レテントゥル・チェリ(英語版)」 (Laetentur Caeli) を採択するまでに至った。これによって東西教会の全面的な再統一が大きく進むと見られたが、ビザンツ帝国内では、東方の全教会の総意を得たうえの決議ではなく、政治的な思惑からのものであったため、聖職者や国民らから大きな反発の声が上がり、合同の実現は果たせなかった。モスクワも合同を受け入れず、合同派の府主教キエフのイシドール(ロシア語版、英語版)は追放された。 また、1453年にオスマン帝国軍がコンスタンティノポリスを陥落させた(コンスタンティノープルの陥落)ため、以降東西教会の合同へ向けた協議は行われなくなった。しかし、この公会議によってアルメニア教会の一部がローマ・カトリック教会と合同し、アルメニア典礼カトリック教会(アルメニア語版、英語版)が成立するという一応の成果がカトリック教会にもたらされた。
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