包囲戦の頂点
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/03 20:02 UTC 版)
10月26日からは北東風が吹き、嵐が3日間続いて、暴風と車軸を流すような雨に見舞われた。マッド島には2フィート (600 mm) の雨が降り、プロビンス島とカーペンター島も同じような状況だった。両軍の砲撃が止み、どちらも乾燥した場所を見つけようとしていた。11月1日までに、アメリカ軍はフィラデルフィア市にいるイギリス軍を事実上封鎖していた。ハウ軍は食料、ラム酒、衣類、金に不足するようになった。モントレサー大尉は適切な大砲と弾薬が不足していることに苦情を言っていた。イギリス軍は平底船の船団を組んでフィラデルフィア市に物資を輸送することを強いられた。ミフリン砦とペンシルベニア海軍からの砲撃で沈没させられることを防ぐために、移動は夜に行い、完全な静寂を保つ必要があった。ドイツ兵大尉ヨハン・フォン・エバルトは、水兵にその危険な仕事をさせるために、完全に酔わせておいたと記した。 ワシントンは10月29日に開催した作戦会議で、ジェイムズ・ミッチェル・バーナム准将にデラウェア川防衛の任務を命じた。バーナム旅団に属するロードアイランド2個連隊は既に砦の任務に就いていた。その後旅団の残り2部隊も戦闘に参加することになった。11月3日、バーナムはコネチカット第4連隊と同第8連隊をミフリン砦防衛に派遣した。 11月10日、モントレサー大尉は砦を落とすための最後の準備を行った。その日までに32ポンド砲2門、24ポンド砲6門、18ポンド砲1門に加え、8インチ榴弾砲2門、8インチ迫撃砲2門、13インチ迫撃砲1門を用意した。この日両軍は500ヤード (460 m) 離れて砲撃戦を行った。アメリカ兵に損失は出なかったが、島西側の木柵の大半が壊された。11月11日、トリート大尉がスミスと話をしているときに、近くに落ちた砲弾の爆風で戦死した。その日遅く、スミスが兵舎にいるときに、砲弾が煙突を破壊して落ち、スミスの左腰に当たった。崩壊した煙突からは煉瓦で守られ、手首を脱臼したが、砲弾が不発弾だったのでスミスは助かった。 負傷したスミスは船でレッドバンクに渡され、守備隊の指揮官が居なくなった。バーナムは、その部隊がイギリス軍歩兵の襲撃には耐えられるが、間断無い砲撃で兵士の命を奪っていると報告した。フリューリーはワシントンに宛てて、大砲は2門を除いて砲架から外されたが、守備兵は毎夜木柵の修復を行うことができると書き送った。砦の中で唯一安全な場所は東側の溝であり、フリューリーはそこに行って兵士達に作業の詳細を説明し、のろのろする者はその指揮杖で追い立てた。スミスが去った後の指揮を継ぐ者は、コネチカットのジャイルズ・ラッセル大佐だったが、ラッセルはそれを辞退し、召還を求めた。11月12日、セイヤー少佐が砦の指揮官を受け入れた。 ウィリアム・ハウ将軍は11月9日に軽装歩兵と近衛歩兵の分遣隊を編成し、第4代準男爵ジョージ・オズボーン中佐の指揮下に置いた。この部隊は13日には準備を終え、第27歩兵連隊と第29歩兵連隊に支援されることとされた。11月14日までにイギリス軍は、32ポンド砲4門と24ポンド砲6門を2か所の砲台に据え終わり、日々の砲撃を加速させた。その夜、ミフリン砦から輸送船団に砲撃があったが、損失を与えられなかった。 イギリス軍はHMSビジラント(大砲20門搭載)を上流に向かわせ、砦攻撃に参加させた。ビジラントは元々海軍の輸送船エンプレス・オブ・ルシアだった。1776年6月に岸への砲撃を意図して改装されていた。そのために24ポンド砲14門、9ポンド砲2門、6ポンド砲4門を搭載していた。イギリス軍は攻撃の前にビジラントの舷側を強化し、24名の狙撃兵と50名の砲手を加え、右舷にはさらに大砲2門を追加した。艦の安定性を確保するために水の入った樽を左舷に置いた。ジョン・ヘンリー・海軍中佐が指揮官だった。満潮にも助けられビジラントはマッド島とデラウェア川北岸の間の浅い水路を進み、11月15日午前8時に所定の位置に着いた。これに輸送船を改装し18ポンド砲3門を乗せたスループ艦フュアリーが従い、20ヤード (18 m) の距離から砦への砲撃を開始した。主水路の方では、HMSサマセット(大砲70門搭載)、アイシス、ローバック、パールが遠距離からその舷側の砲撃を加えた。 セイヤーは危険な場所へ32ポンド砲を移動させるよう命じた。ビジラントが所定の場所に着くまでに、その大砲から14発が放たれた。浮かぶ砲台(ビジラント)が碇を降ろすと、砦は縦射を受ける危険な位置に置かれた。1発の砲弾が大砲1門に取り付いていたアメリカ砲手5名を殺した。ある守備兵は、その兵士達が「炙られた魚のように裂けた」と記していた。セイヤーはヘイゼルウッドからの救援を要請する困窮信号を挙げるよう命じたが、そうするためには砦の軍旗をまず降ろす必要があった。イギリス軍砲手が砲撃を止め、勝利を予測する歓声を上げ始めると、セイヤーの指揮官達は軍旗を即座に再掲揚することを要求した。砲撃が再開され、砲兵軍曹は軍旗が砲弾に半分に避けて、次の犠牲者になったと詳述している。その日の午後、砲弾が当たった兵舎から飛んできた木片が砲兵大尉ジェイムズ・リーを倒し、フリューリーを気絶させた。ヘイゼルウッドの船舶がビジラントとフュアリーを攻撃しようとすると、イギリス海軍戦隊からの砲撃で後退させられた。この時までに砦の内部は砲弾の通った溝ができ、兵舎とブロックハウスも壊されていた。 オズボーンは平底船8隻にそれぞれ35名の兵士を乗せ、その襲撃の第一波に送る作戦だった。ハウは400名の襲撃隊に命令を出すことを拒み、満潮を待ち、守備隊が砦を放棄することを期待していた。その夜、セイヤーは砦を放棄する命令を出した。生存兵300名と、持ち出せる装備を持って、レッドバンクに渡った。セイヤーは選抜部隊40名を連れてとって返し、夜中に兵舎を焼き払い、直ぐにニュージャージーで部隊に合流した。セイヤーは最後に生還した者だった。
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