包囲戦の開始
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間もなくセントフィリップ砦を包囲するための砲台建設が始まり、その中でも重要なのが港口とは反対側のラモラとジョージタウンに近いビニサイダのものだった。イギリス軍はこれら工作を容易にはさせなかった。その大砲を工事地点に向け、砦から部隊を出撃させることもあった。その中でも大きなものは10月11日に400名(スペインの新聞が報道)ないし700名の兵士が港を横切ってラモラに向かったものであり、80名の兵士と8名の士官を捕獲した。スペイン部隊がその追撃に派遣されたが遅すぎた。その士官達は捕虜になったイギリス軍士官と交換されるのではない限り、二度と戦闘には加わらないと誓約した後で解放された。この戦闘でイギリス兵3名が戦死した。この戦闘はイギリス軍にとって成功だったが、マリー知事とその副官であるウィリアム・ドレイパー中将との間にその権限に関する議論があって齟齬が生じ、その後さらに険悪なものになっていった。 このことが起こる前でもクリヨンの軍隊の中にはかなりの不満の声があった。これは1775年にスペイン軍がアルジェのアージェル市攻撃して成功したときの体験と比較したものだった。それゆえに援軍が命じられ、偶然にもイギリス軍の攻撃があった翌日にマルセイユからの最初の船がフォルネルスに到着した。既に島に上陸していた10,411名の軍隊に、10月23日には2個旅団(フランス兵1個旅団とドイツ兵1個旅団)、総計3,886名が追加された。この時にはまたスペイン政府から別の戦略を試みる提案がクリヨンに要請されていた。メノルカから数か月も掛かってイギリスに漏れ聞こえた報告の中で、1782年1月末にロンドンの新聞に掲載された2通の手紙は混乱させるものだった。1つは1781年10月16日付けでマリーからクリヨンに送られた手紙であり、マリーの家系は公爵家と同じくらい高貴なものであり、元クリヨン公爵が国王から裏切りを求められたときにこれを拒んだことを思い出させようとするものだった。もう一通はクリヨンの返信であり、クリヨン自らマリーの批判を喜んで受け入れることを示していた。これら交換された手紙のもとになったのは、クリヨンがマリーの降伏と引き換えに50万ペソ(当時10万ポンド、或る史料では100万ポンドの価値があった)とスペイン軍あるいはフランス軍での位を提案したことだった。
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包囲戦の開始
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「セントジョンズ砦包囲戦」の記事における「包囲戦の開始」の解説
9月17日、モントゴメリーの部隊はセントジョンの直ぐ南で出来合いの船隊から降り、砦から北のモントリオールに向かう道路を閉鎖するためにジョン・ブラウンに分遣隊を付けて派遣した。上陸した部隊をロイヤルサベージが攻撃する可能性に備えて、小さな武装ボートの船隊が川を守った。 ブラウン隊はその日に最初の通行者を捕らえた。それは砦に物資を運ぶ荷馬車隊だった。このことが起こったのを見た砦の指揮官プレストンは、物資を取り戻すために急襲部隊を派遣した。ブラウン隊は物資を森の中に隠すだけの時間があり、本部隊のところまで戦闘の音が届くところまで後退した。モントゴメリーはベデルとその中隊と共にブラウン隊の救援に駆けつけ、物資を渡すことなく砦までイギリス兵を追い返すことに成功した。この戦闘の間にモーゼス・ヘイズンがまずブラウンに捕まえられて尋問を受け、続いてイギリス軍に逮捕され砦まで連れて行かれた。その夜ヘイズンとインディアン代理人のロリミエは砦から脱出し、モントリオールに行ってカールトンに状況を報告した。 モントゴメリーは9月18日に部隊を使って砦の周りに塹壕掘りを始めさせ、砦の南には迫撃砲の砲台を造らせた。ブラウンにはモントリオールに向かうためのセントローレンス川渡河地点の1つであるラ・プレーリーに陣地を設けるよう命令した。イーサン・アレンはアメリカ兵の小部隊と共にリビングストンが徴兵していたカナダ兵を集めに行き、彼らを連れてもう1つの主要渡河点であるロンゲールの監視に向かった。リビングストンはシャンブリー砦の下流ポワン・オリビエで基地を建設していた。シャンブリー砦はリシュリュー川の急流沿いにある昔からの砦だった。リビングストンはその同国人達にそこで合流するよう督促していた。ロイヤリストの中にはリビングストンの部隊に他の者達が加わらないよう説得に努めるものがいた。リビングストンの支持者達はロイヤリストの動きに激しく反発することがあり、またカールトンは市外でのロイヤリストの動きを支援するために何もしていなかった。 アレンはタイコンデロガ砦での行動における強がりで既に有名だったが、9月24日にロンゲールに到着したときにモントリオールを手に入れることを試みることにした。翌日のロングポイントの戦いでこの試みは失敗し、アレンは多くの兵士と共にイギリス軍に捕まった。アレンがモントリオール近辺まで来ていたことが警鐘となり、モントリオールの外の田園部から約1,200名の民兵を集めることになった。しかし、カールトンはロイヤリスト支援の輪に乗じることができず、セントジョンズ砦を包囲している大陸軍に対する救援部隊に彼らを送ろうとはしなかった。カールトンが何もしなかった数週間で、田園部から来た者達は家の用事や収穫のために戻っていった。カールトンはこのときの利点を使って、モントリオールの商人でアメリカ支持を公言し、大陸軍に通報していたトマス・ウォーカーを逮捕する命令を出してはいた。 包囲のための工作物を作る大陸軍の状態は困難なものだった。地面は湿地であり、塹壕は直ぐに膝の高さまで水で埋まった。モントゴメリーはその部隊を「湿地を這い回る半分溺れたネズミ」と表現していた。さらに事態を悪くしたのは、食料や弾薬などの物資が枯渇し始めたことであり、大陸軍が砲撃を行ってもイギリス軍は諦める兆候も無かった。病気もまた大陸軍の有効性を減じるように働いていた。10月半ばまでに900名以上の兵士が病気のためにタイコンデロガ砦まで後送された。包囲戦の初期に砦の守備隊は砦の周りの土地を払って、包囲側が砲台も建てられないほどできるだけ難しくすることに成功していた。プレストン少佐は9月23日の日記で、「脱走者が敵はどこに砲台を造っているかを告げたので、できる限り砲弾を撃ち込んでそれを使えなくした」と記していた。タイコンデロガから大型の大砲が到着するまで、砦の守備隊は火力で大陸軍をかなり上回っていた。
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包囲戦の開始
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「ジブラルタル包囲戦 (1333年2月-6月)」の記事における「包囲戦の開始」の解説
1309年、フェルナンド4世が、ムスリムが支配するグラナダ王国からジブラルタルを奪還した(the Medinat al-Fathとして知られる)。ジブラルタルの要塞はカスティーリャ王国により修理され、改善された。1315年、グラナダ王国がジブラルタルを手短に奪還しようとして、第二次ジブラルタル包囲戦を起こしたが失敗した。 ナスル朝とマリーン朝の同盟はジブラルタル失陥で失効したが、マリーン朝君主がアブー・アルハサン・アリーに代替わりして、両国の協定が更新された。1333年2月、アブー・アルハサン・アリーの息子アブー・マーリク率いる7,000人の軍が、アルヘシアスでムハンマド4世の軍と合流するために、秘密裏にジブラルタル海峡を渡った。カスティーリャ王国はアルフォンソ11世の戴冠に気をとられ、侵攻軍に対応するのが遅く、対応の多くが計画される前にジブラルタルを包囲することができた。 ジブラルタルでは、この事態に対してほとんど準備されていなかった。ジブラルタル総督のDon Vasco Perez de Meiraは、王から食料と街の防衛の維持のために割り当てられた資金を盗み、ヘレス・デ・ラ・フロンテーラ付近に自分自身のための土地を買い、また食料自体も横領してムーア人側に売り、駐屯兵を力不足のままにした。包囲戦のわずか8日前に、ジブラルタル沿岸沖で穀物船が難破して追加の食料供給を得たが、出来事が証明するように、十分には程遠かった。 街は、海岸沿いの造船所からジブラルタルの岩の斜面を数百フィート上がった城まで個別に要塞化された地区で構成されていた。2月末までに、アブー・マーリク軍は造船所と城の上にある岩のエリアを占領して、攻城兵器を設置した。カスティーリャ王国は援軍を組織しようとしたが、グラナダ軍がカスティーリャ王国の注意をそらすために国境を急襲したので、出来なかった。さらに、アルフォンソ11世と臣下との間で政治的な紛争があり、包囲を解除させるための軍の編成が遅れた。アルフォンソ11世はAlfonso Jofre de Tenorio提督の下で自由に使えるようにしたが、包囲を支援するムーア人の船が近海付近に陣取り、攻撃するには非常に危険だった。
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包囲戦の開始
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/05 06:08 UTC 版)
752年、フランク王ピピン3世はナルボンヌを包囲した。彼の予測は楽観的であり、短期間で街は陥落するとみていた。しかし包囲戦は長期化し、754年には同盟者アンセムンドがライバルのゴート人派閥によって殺される事件が起き、攻囲軍は大きな打撃を受けた。これをうけてニームでは反フランクのゴート人が反乱を起こしたが、ピピン3世はこれを迅速に制圧し、アンセムンドの後継にフランク人の長官を置いた。ピピン3世と敵対していたアクィタニア公ワイファリは、バスク人の部隊を率いてフランク軍の後方を脅かした。またフランク王国にはナルボンヌを海上封鎖できるような海軍が無く、アンダルスから来た補給船が自由にナルボンヌ市内に入ることができたため、ナルボンヌ守備隊は極めて長期間にわたり包囲戦を耐えることができた。
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