セントジョンズ砦包囲戦
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セントジョンズ砦包囲戦(英: Siege of Fort St. Jean、砦の名称は英語でセントジョンまたはセントジョーンズ、フランス語でサンジャン)は、アメリカ独立戦争初期の大陸軍によるカナダ侵攻作戦中に、イギリス領ケベック植民地のセントジョンズの町と砦で行われた戦闘である。包囲戦は1775年9月17日から11月3日まで続いた。
- ^ この戦闘に参加した大陸軍の勢力は、援軍の到着や病気と負傷による離脱のために大きく変化した。またシャンブリー砦の捕獲に関わった勢力は大陸軍の小部隊とカナダ民兵の連合だったために正確な数字が不明である。 Stanley, p. 55 ではシャンブリー砦を包囲したのは200ないし500名と推計している。一方、当初カナダに侵攻したのは約1,500名であり(Stanley, p. 37)、その他の数字は信頼性が無い。 Stanley, p. 60, ではセントジョン砦降伏前にイギリス軍が大陸軍の勢力を2,000名と推定したことを挙げている。
- ^ Stanley, pp. 33–34 では正規兵と民兵で662名、イロコイ族約100名としている。 Wood, p. 37 では総勢725名としている。
- ^ Stanley, p. 54
- ^ 大陸軍の勢力と同様、正確な損失の数字は不明である。史料によって特別の戦闘における数字を挙げている可能性がある。 Zuehlke, p. 51, と Stanley, p. 62, では100名と推計しており、Smith, p. 458, ではわずか20名としている。 Gabriel, p. 112 では900名の病人が10月半ばまでにタイコンデロガ砦に後送されたとしている。
- ^ a b Stanley, p. 62
- ^ Lanctot p. 92 ではセントジョン砦で降伏した数にシャンブリー砦の降伏数を足している。
- ^ Stanley, p. 29
- ^ Stanley, pp. 37–39
- ^ Bird, p. 56
- ^ a b Stanley, p. 41
- ^ Lanctot, p. 44
- ^ Lanctot, pp. 50,53
- ^ Smith, p. 342
- ^ Stanley, pp. 35–36
- ^ Gabriel, p. 106
- ^ a b Gabriel, p. 98
- ^ a b Stanley, p. 39
- ^ Gabriel, Stanley, Morrissey, and Smith all make this claim. Stanley cites Smith, p. 612, as providing a reliable conclusion that the man was Hazen.
- ^ Gabriel, p. 99
- ^ Bird, p. 89
- ^ Gabriel, p. 100
- ^ Smith, p. 330
- ^ Lanctot, p. 64
- ^ a b Lanctot, p. 65
- ^ Smith, pp. 357–359
- ^ Gabriel, pp. 100–101
- ^ a b Gabriel, p. 101
- ^ Smith, p. 335
- ^ a b Bird, p. 93
- ^ Bird, pp. 94–95
- ^ Bird, p. 96
- ^ Stanley, p. 42
- ^ Lanctot, pp. 77–78
- ^ Stanley, pp. 48–49
- ^ a b c Wood, p. 39
- ^ a b Gabriel, p. 112
- ^ a b Stanley, p. 51
- ^ Gabriel, pp. 118–119
- ^ Gabriel, pp. 120–121
- ^ Stanley, p. 55
- ^ Gabriel, p. 121
- ^ Stanley, pp. 56–57
- ^ a b Gabriel, p. 123
- ^ Stanley, p. 58
- ^ Smith, pp. 450–451
- ^ Stanley, pp. 58–59
- ^ a b Stanley, p. 60
- ^ Smith, p. 459
- ^ Smith, p. 460
- ^ Smith, pp. 460–465
- ^ Lanctot, p. 91
- ^ Bird, pp. 142–144
- ^ Stanley, p. 65
- ^ Bird, p. 220
- ^ Stanley, p. 132
- ^ Musée Fort St-Jean
セントジョンズ砦包囲戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/31 14:39 UTC 版)
「リチャード・モントゴメリー」の記事における「セントジョンズ砦包囲戦」の解説
詳細は「セントジョンズ砦包囲戦」を参照 モントゴメリーはセントジョンズ砦の外で援軍を受け続けた。かれは指揮官達にその地位に適していないと考える者は去ることを認めた。「私は頼ることのできる戦士以外誰も残って欲しくはない」と告げた。 9月16日、モントゴメリーはイギリスの砦に対する新たな遠征隊を組織した。総勢は1,400名となった。スクーナー船1隻、スループ船1隻および平底船10隻に350名の兵士を乗せた海軍部隊を作り、イギリスの艦船ロイヤル・サベージの如何なる動きにも対応するように派遣した。モントゴメリーは残りの部隊を率いて川を上り、9月17日にセントジョンズの近くで上陸した。イギリス軍の守備隊はチャールズ・プレストン少佐の指揮する725名であり、プレストンは3年前のイギリス軍ではモントゴメリーの上級士官だった。 モントゴメリーとその部隊は最初の夜を上陸点で過ごしたが、イギリス軍の大砲から幾らかの砲撃があった。翌朝、ティモシー・ベデル少佐に砦の北の陣地を占領するよう命じたが、その兵士達が恐れているように見えたとき、自らがその任務を指揮することを選んだ。モントゴメリーが部隊を率いていくと、彼らはイギリス軍と他の大陸軍部隊との間での戦闘に出くわした。モントゴメリーがその小競り合いの指揮を執り、イギリス軍を砦の中に後退させた。モントゴメリーはベデルに部隊を付けて、砦の北約1マイル (1.6 km) で塹壕を掘らせた。続いて他の部隊を砦の周りに付けて包囲戦を始めた。 プレストンのイギリス軍は大陸軍よりも多くの大砲と弾薬を持っており、最初の数週間は10対1の火力差があった。モントゴメリーは包囲用工作物の改良にその部隊を集中させた。砦からの間断ない砲撃の下で数日の内に2つの砲台を造り上げた。9月22日、胸壁を査察しているときに砦からの砲弾が彼の上を通り過ぎ、そのスカートを剥ぎ取り、胸壁から彼を吹き飛ばしたが、自分の足で着地できたので危うく戦死を免れた。これを見ていた兵士は「彼を傷つけも怖がらせもしなかったように見えた」と言った。 大陸軍はタイコンデロガから物資の供給を受け続け、9月21日とさらに10月5日に大砲が到着した。しかしそれらの大砲はあまりに遠くに据えられたので、砦にたいした被害を与えられなかった。モントゴメリーは新しい大砲が到着したことで、砦東側からの砲撃をさらに近い北側からの砲撃に集中させる作戦を立てた。しかし、危険性も増すために多くの兵士が脱走することを恐れた部下の士官たちは異口同音にこの作戦に反対した。モントゴメリーは新しい砲台を作ってロイヤル・サベージを脅かすことのできる場所への建設を命じた。10月14日、その砲台が完成し、イギリス軍の艦船を沈めるために使われた。 10月半ば、シャンブリー近くに住むアメリカ人国外居住者のジェイムズ・リビングストンがモントゴメリーに、約10マイル (16 km) 下流のシャンブリー砦であればセントジョンズ砦より弱いので攻撃が成功すると提案した。モントゴメリーはこの考えを承認し、350名にシャンブリーへ向かうよう命じた。10月16日夜、大陸軍の2門の大砲がセントジョンズ砦の下を過ぎてシャンブリーへ移動した。翌朝、これらの大砲がシャンブリーへの砲門を開いた。砲撃が2日間続き、砦の壁には穴が明き、煙突が倒された。イギリス軍の指揮官が降伏し、6トンの火薬と83名の兵士が捕獲された。モントゴメリーはこの砦を守っていた第7ロイヤル・フュージリア連隊の連隊旗をスカイラーに送った。この戦争で初めて捕獲されたイギリス連隊の連隊旗だった。ワシントンはモントゴメリーにお祝いの手紙を送り、「次の手紙はモントリオールから送られること」を期待していると付け加えた。 シャンブリー砦の占領はモントゴメリー軍の兵士の士気を高めたので、セントジョンズ砦の北に砲台を建設するという作戦を実行に移すことにした。この時は反対も無かった。大陸軍が砲台を建設している間、イギリス軍はその作業者に激しい砲撃を加えたが、ほとんど被害は出なかった。モントリオールでイギリス軍を指揮していたガイ・カールトン将軍は、セントジョンズ砦の状況が絶望的だということを認識した。10月末にカールトン自ら救援隊を率いて出たが、大陸軍はその部隊がモントリオールの南でセントローレンス川を渡るのを阻止した。 11月1日、砦の北に建設していた砲台が完成した。大陸軍が砦への砲撃を開始し、その日の残り時間を通じて砲撃が続いた。イギリス軍の大砲も反撃したが効果はほとんど無かった。大陸軍の砲撃もほとんど被害を与えられなかったが、砦の中の構造物には大きな損傷を与えた。包囲されている守備隊の士気は砲撃が負担になり、食料が減っていくにつれて落ちていった。モントゴメリーは日没時に砲撃停止を命令し、シャンブリーで捕らえた捕虜に守備隊の降伏を求める手紙を持たせて砦に送り込んだ。その夜カールトンからプレストンに送られた伝令が捕らえられた。カールトンはその手紙で砦を死守するようプレストンに命じていた。11月2日、イギリス軍守備隊は軍人の栄誉を持って降伏することに同意した。11月3日に彼らは砦から行進して出てきて、植民地に送られ収監された。イギリス軍の戦死は22名、負傷は23名であり、大陸軍は包囲戦を通じて僅かに5名が戦死、6名が負傷しただけだった。
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