セントジョンズ砦包囲戦とは? わかりやすく解説

セントジョンズ砦包囲戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/08/13 18:47 UTC 版)

セントジョンズ砦包囲戦: Siege of Fort St. Jean、砦の名称は英語でセントジョンまたはセントジョーンズ、フランス語でサンジャン)は、アメリカ独立戦争初期の大陸軍によるカナダ侵攻作戦中に、イギリスケベック植民地のセントジョンズの町と砦で行われた戦闘である。包囲戦は1775年9月17日から11月3日まで続いた。


  1. ^ この戦闘に参加した大陸軍の勢力は、援軍の到着や病気と負傷による離脱のために大きく変化した。またシャンブリー砦の捕獲に関わった勢力は大陸軍の小部隊とカナダ民兵の連合だったために正確な数字が不明である。 Stanley, p. 55 ではシャンブリー砦を包囲したのは200ないし500名と推計している。一方、当初カナダに侵攻したのは約1,500名であり(Stanley, p. 37)、その他の数字は信頼性が無い。 Stanley, p. 60, ではセントジョン砦降伏前にイギリス軍が大陸軍の勢力を2,000名と推定したことを挙げている。
  2. ^ Stanley, pp. 33–34 では正規兵と民兵で662名、イロコイ族約100名としている。 Wood, p. 37 では総勢725名としている。
  3. ^ Stanley, p. 54
  4. ^ 大陸軍の勢力と同様、正確な損失の数字は不明である。史料によって特別の戦闘における数字を挙げている可能性がある。 Zuehlke, p. 51, と Stanley, p. 62, では100名と推計しており、Smith, p. 458, ではわずか20名としている。 Gabriel, p. 112 では900名の病人が10月半ばまでにタイコンデロガ砦に後送されたとしている。
  5. ^ a b Stanley, p. 62
  6. ^ Lanctot p. 92 ではセントジョン砦で降伏した数にシャンブリー砦の降伏数を足している。
  7. ^ Stanley, p. 29
  8. ^ Stanley, pp. 37–39
  9. ^ Bird, p. 56
  10. ^ a b Stanley, p. 41
  11. ^ Lanctot, p. 44
  12. ^ Lanctot, pp. 50,53
  13. ^ Smith, p. 342
  14. ^ Stanley, pp. 35–36
  15. ^ Gabriel, p. 106
  16. ^ a b Gabriel, p. 98
  17. ^ a b Stanley, p. 39
  18. ^ Gabriel, Stanley, Morrissey, and Smith all make this claim. Stanley cites Smith, p. 612, as providing a reliable conclusion that the man was Hazen.
  19. ^ Gabriel, p. 99
  20. ^ Bird, p. 89
  21. ^ Gabriel, p. 100
  22. ^ Smith, p. 330
  23. ^ Lanctot, p. 64
  24. ^ a b Lanctot, p. 65
  25. ^ Smith, pp. 357–359
  26. ^ Gabriel, pp. 100–101
  27. ^ a b Gabriel, p. 101
  28. ^ Smith, p. 335
  29. ^ a b Bird, p. 93
  30. ^ Bird, pp. 94–95
  31. ^ Bird, p. 96
  32. ^ Stanley, p. 42
  33. ^ Lanctot, pp. 77–78
  34. ^ Stanley, pp. 48–49
  35. ^ a b c Wood, p. 39
  36. ^ a b Gabriel, p. 112
  37. ^ a b Stanley, p. 51
  38. ^ Gabriel, pp. 118–119
  39. ^ Gabriel, pp. 120–121
  40. ^ Stanley, p. 55
  41. ^ Gabriel, p. 121
  42. ^ Stanley, pp. 56–57
  43. ^ a b Gabriel, p. 123
  44. ^ Stanley, p. 58
  45. ^ Smith, pp. 450–451
  46. ^ Stanley, pp. 58–59
  47. ^ a b Stanley, p. 60
  48. ^ Smith, p. 459
  49. ^ Smith, p. 460
  50. ^ Smith, pp. 460–465
  51. ^ Lanctot, p. 91
  52. ^ Bird, pp. 142–144
  53. ^ Stanley, p. 65
  54. ^ Bird, p. 220
  55. ^ Stanley, p. 132
  56. ^ Musée Fort St-Jean



セントジョンズ砦包囲戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/31 14:39 UTC 版)

リチャード・モントゴメリー」の記事における「セントジョンズ砦包囲戦」の解説

詳細は「セントジョンズ砦包囲戦」を参照 モントゴメリーセントジョンズ砦の外で援軍を受け続けた。かれは指揮官達にその地位適していないと考える者は去ることを認めた。「私は頼ることのできる戦士以外誰も残って欲しくはない」と告げた9月16日モントゴメリーイギリスの砦に対す新たな遠征隊を組織した総勢は1,400となったスクーナー船1隻、スループ船1隻および平底10隻に350名の兵士乗せた海軍部隊作りイギリス艦船ロイヤル・サベージの如何なる動きにも対応するように派遣したモントゴメリー残り部隊率いて川を上り9月17日セントジョンズ近く上陸したイギリス軍守備隊はチャールズ・プレストン少佐指揮する725名であり、プレストン3年前イギリス軍ではモントゴメリーの上士官だった。 モントゴメリーとその部隊最初の夜を上陸点で過ごしたが、イギリス軍大砲から幾らか砲撃があった。翌朝、ティモシー・ベデル少佐に砦の北の陣地を占領するよう命じたが、その兵士達恐れているように見えたとき、自らがその任務指揮することを選んだモントゴメリー部隊率いていくと、彼らはイギリス軍他の大陸軍部隊との間での戦闘に出くわしたモントゴメリーがその小競り合い指揮執りイギリス軍を砦の中に後退させた。モントゴメリーはベデルに部隊付けて、砦の北約1マイル (1.6 km) で塹壕を掘らせた。続いて他の部隊を砦の周りに付けて包囲戦始めたプレストンイギリス軍大陸軍よりも多く大砲弾薬持っており、最初の数週間10対1の火力差があった。モントゴメリー包囲工作物改良にその部隊集中させた。砦からの間断ない砲撃の下で数日の内に2つ砲台造り上げた9月22日胸壁査察しているときに砦からの砲弾彼の上を通り過ぎ、そのスカート剥ぎ取り胸壁から彼を吹き飛ばしたが、自分の足で着地できたので危うく戦死免れた。これを見ていた兵士は「彼を傷つけも怖がらせもしなかったように見えたと言った大陸軍タイコンデロガから物資供給を受け続け9月21日とさらに10月5日大砲到着した。しかしそれらの大砲あまりに遠く据えられたので、砦にたいした被害与えられなかった。モントゴメリー新し大砲到着したことで、砦東側からの砲撃をさらに近い北側からの砲撃集中させる作戦立てた。しかし、危険性も増すために多く兵士脱走することを恐れた部下士官たちは異口同音にこの作戦反対した。モントゴメリー新し砲台作ってロイヤル・サベージを脅かすことのできる場所へ建設命じた10月14日、その砲台完成しイギリス軍艦船沈めるために使われた。 10月半ば、シャンブリー近くに住むアメリカ人国外居住者のジェイムズ・リビングストンがモントゴメリーに、約10マイル (16 km) 下流のシャンブリー砦であればセントジョンズ砦より弱いので攻撃成功する提案したモントゴメリーはこの考え承認し350名にシャンブリーへ向かうよう命じた10月16日夜、大陸軍の2門の大砲セントジョンズ砦の下を過ぎてシャンブリーへ移動した翌朝、これらの大砲がシャンブリーへの砲門開いた砲撃2日続き、砦の壁には穴が明き煙突倒された。イギリス軍の指揮官が降伏し、6トン火薬83名の兵士捕獲された。モントゴメリーはこの砦を守っていた第7ロイヤル・フュージリア連隊連隊旗スカイラー送った。この戦争初め捕獲されイギリス連隊連隊旗だった。ワシントンモントゴメリーお祝いの手紙を送り、「次の手紙モントリオールから送られること」を期待していると付け加えた。 シャンブリー砦の占領モントゴメリー軍の兵士士気高めたので、セントジョンズ砦の北に砲台建設するという作戦実行に移すことにした。この時は反対無かった大陸軍砲台建設している間、イギリス軍はその作業者に激し砲撃加えたが、ほとんど被害は出なかった。モントリオールイギリス軍指揮していたガイ・カールトン将軍は、セントジョンズ砦状況絶望的だということ認識した10月末にカールトン自ら救援隊率いて出たが、大陸軍はその部隊モントリオールの南でセントローレンス川を渡るのを阻止した11月1日、砦の北に建設していた砲台完成した大陸軍が砦への砲撃開始しその日残り時間通じて砲撃続いたイギリス軍大砲反撃した効果はほとんど無かった大陸軍砲撃もほとんど被害与えられなかったが、砦の中の構造物には大きな損傷与えた包囲されている守備隊士気砲撃負担になり、食料減っていくにつれて落ちていった。モントゴメリー日没時砲撃停止命令し、シャンブリーで捕らえた捕虜守備隊の降伏求め手紙持たせて砦に送り込んだその夜カールトンからプレストン送られ伝令捕らえられた。カールトンその手紙で砦を死守するようプレストン命じていた。11月2日イギリス軍守備隊軍人栄誉持って降伏することに同意した11月3日に彼らは砦から行進して出てきて、植民地送られ収監された。イギリス軍戦死22名、負傷23名であり、大陸軍包囲戦通じて僅かに5名が戦死、6名が負傷したけだった

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