インディアンとの小競り合い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/09/14 15:05 UTC 版)
「セントジョンズ砦包囲戦」の記事における「インディアンとの小競り合い」の解説
9月6日、スカイラーとモントゴメリー両将軍がセントジョン砦から約1マイル (1.6 km) 上流の上陸点まで平底舟で部隊を動かした。スカイラーは船に留まり、モントゴメリーが部隊を率いて砦上流の湿地を進んだ。この部隊はそこでタイスとロリミエに率いられた約100名のインディアンに急襲された。その後の小競り合いの中で、大陸軍は8名が戦死し、9名が負傷した。インディアンの方は4名が戦死し、5名が負傷したが、タイスも負傷した。大陸軍の兵士は比較的経験の浅い民兵であり、船の所まで引き返し、防御のために胸壁を建設した。これを見た砦の守備隊は胸壁に向かって大砲を発砲し、大陸軍をさらに約1マイル上流に後退させた。大陸軍はそこで再度胸壁を築きその夜の宿営を張った。インディアンは、砦の部隊も住人も戦闘の支援のために出てこなかったことに不満を抱き、自分達の集落に帰った。 スカイラーはその宿営地に地元のある男の訪問を受けた。歴史家達はこれがモーゼス・ヘイズンだったと信じている。マサチューセッツ生まれで砦の近くに住む退役士官のヘイズンは、大陸軍の状況の暗い見通しについて語った。ヘイズンは、砦が第26連隊全軍と100名のインディアンで守られており、包囲戦に対しても物資は十分にあると言った。また住民はアメリカ側に友好的ではあるが、勝利の見通しが立たなければ協力はしないだろうとも言った。スカイラーは9月7日に作戦会議を招集し、イル・オ・ノワまで後退することを決めた。しかし、9月8日、デイビッド・ウースター指揮下にコネチカットの民兵と砲兵を伴うニューヨークの民兵を含め800名の援軍が到着し合流した。この援軍に心を強くした大陸軍は退却の代わりに砦に向かって夜間の行軍を行うことに決めた。病気が重くなっていたスカイラーは(「ペンを持てないくらい」病気が進行していたとされている)、部隊の指揮権をモントゴメリーに渡した。 セントジョンズ砦の外で起こった両軍のこの最初の接触に関する報告はかなり誇張されているものが多い。地元民の多くはある種の勝利だったと主張していた。例えば「ケベック・ガゼット」紙は、60名のインディアンが1,500名の大陸軍を追い払い、30名を殺し、40名を負傷させたと報告した。この報せに続いてカールトン将軍は近くの教区全てにその民兵の10%を差し出すよう命令を発した。民兵の士官達はモントリオールに出頭したが、多くの民兵は家に留まったままだった。9月7日までに約120名の民兵隊が立ち上げられ、セントジョンズ砦に送られた。
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